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老節布開拓碑

住所 富良野市老節布(富良野市立樹海小学校校庭横)

ふらの観光協会公式サイト

富良野の由来は諸説があり、アイヌ語の「フラヌ」(赤色の溶岩や焼石が沢山あるところ)「フーラヌイ」(硫黄臭き火炎の土地)「フラヌイ」(臭き火焔)から転訛したものといわれ、いずれも市内を流れている富良野川の上流に硫黄山(十勝岳)があり、噴気と臭気に由来している。
老節布の由来は、アイヌ語の「ラウセップ」(深い沢の土地)または「ルーセップ」(道端に巣がある所)。
道道253号東山富良野停車場線の老節布市街地交差点から基線道路を西達布方向に約180mほど右手。

豊富な森林資源を守るため東大演習林が設置されたのは、富良野地区の山部、東山、老節布、西達布にある原始林。演習林全体の面積は約2万3千ヘクタール。JR山手線の内側の面積の3.5倍に相当する。
1899(明治32)年に創立され、北方林業・林学の教育や研究の場として利用され、国有林2万3597haを内務省(現・北海道庁)から移管され、東京帝国大学農科大学試験地として設置された。
演習林は、林内植民制度(造林事業の労働力確保のために採用されたもの)を設けて、山火防止や労働力の供給源として老節布地区が脚光を浴びることとなった。
農地として決まった老節布地区は、1916(大正5)年9月に31戸が入植したのが始まりで、1914(大正3)年には老節布川沿いに、道幅1.3m(四尺)の林道がつけられ、一区画4haの測量が完了していた。この頃ある程度の木材は、江別にある製紙工場にパルプの材料として山口造材部の手によって伐採が終わっていたが、タモ・ナラ・カツラなどの木はそのまま残されていた。入植してすぐは伐採された木の根があり、熊笹が密生する鬱蒼とした場所だった。
碑は、1966(昭和41)年9月に建立された。ここが老節布開拓発祥の地である。

碑文
東京大学教授川瀬善太郎博士ノ周密ナル計画ト指導ノ
下ニ大正五年九月 三十一戸ノ開拓者ガ此地ニ林内植
民トシテ入植ス、爾来連年入植ヲ増シ並々ナラヌ忍耐
ト努力ヲ続ケ林業労働ノ出役ヲ果シ乍〇豊穣楽土ノ基
礎ヲ築ク
即チ開拓以来五十年ノ歳月ハ流レ 先入植者ノ苦労ガ
志レラレ様トスル時 地区住民ガ相計リ開拓五十年ヲ
記念シテ功労者ヲ顕彰シ其ノ偉業ヲ讃エ 之ヲ後世に
伝エントスルモノナリ     小野藤次郎
昭和四十一年九月
老節布開拓五十周年記念事業期成会建立
斎藤石材工業所刻

当初は、1915(大正4)年に入地が決まっていたが、山火事があって翌年になった。とどまつ地区・いちゐ地区に入ったのが最初で、1917(大正6)年には常傭人夫の経験がない入植者も含めくろまつ・いちゐ地区に、1918(大正7)年にはあかまつ地区にそれぞれ入植した。
当時の家は、拝み小屋(屋根と壁の区別のない家)を建て、ようやく住めるようになったころ冬も間近で不安がつのった。米を買い出しに行くには山部まで往復40kmを歩かねばならなく、当時一俵5円の米を買うのは大変な事だったことから主食は麦・イナキビ・ソバ・アワなどだった。
入植当時は、ランプが頼りで山部か下金山まで石油を買いに行った。ストーブもなく、家の中に炉を作り枯れ木を焚いた。
入植してすぐの仕事と言えば、木の伐採と笹刈りだった。演習林の火番が回ってこない日を見計らい伐採した丸太を集め夜に焼いた。朝には火を消してを繰り返した。鍬を入れると笹とか木の根が深くはびこり難渋した。農具も島田鍬(硬い土を掘り起こし、草の根切りをするための開墾用の唐鍬)、鎌、熊手くらいしかなく、自家用の食料を確保することに重点が置き、ソバ・麦・イナキビ等を栽培していた。生活は困窮を極め、冬山に稼ぎに行っても借金(利息分しか稼げない有様)が返せずこの地を去る人も居た。
この頃は東大が地主で、入地者が小作人であった。一般の小作人とは違い、臨時常傭(常に雇われている)人夫・常傭人夫として春秋の植林、夏の下刈、冬の造材と働きその後農地を払い下げられた。
ちなみに、当時の小作料は入植から5年は無年貢だが、6年目からは10アール(1反)当たり50銭を納入することになっていた。当時の金額相場からは安かったようである。
私の先祖もここに入植した。石川県の出身で、当時は幾寅に土地2町歩(2ha)を持ち農業を始めたが、耕作面積が狭く、生活も苦しかったことから広い土地を求めていた時に知人の紹介で演習林の木こりとなりその後1916(大正5)年入植した。ここの初期の入植者は団体入植などではない。
幼少に住んでいた場所です。


1916(大正5)年6月には、熊の沢(現・西達布)へ通ずる道幅1.3m(四尺)の道路(基線道路)を開削する。当時はこの道路がよく利用され、荷物を背に山部や下金山方面へ出かけ帰ってきた。道は丸太を敷いたり割り木を並べただけの道でぬかるんでひどかったが、部落民の奉仕により道路は整備されたのである。熊がよく出たためガンガンを鳴らして歩いたという。
当時の老節布川は、木材の流送に使われていた。提を設けて、水を堰き止め、一度に勢いよく流すことで木材を流していた。一部は西達布川〜空知川石狩川と、江別の製紙工場まで運び、一部は1913(大正2)年10月に新設された根室本線下金山駅から搬出された。

当時の老節布の行政区は、山部戸長役場管轄にあったが、1940(昭和15)年4月に山部村より分村し、二級町村制を施行し「東山村」とした。東山・西達布・老節布・平沢が区画である。役場庁舎は現在の東山支所である。
東山時代に、東山地区は「濶葉樹」名・西達布地区は「草」(灌木)名・老節布地区は「針葉樹」名を命名し、老節布ではとどまつ・いちい・くろまつ・あかまつ・からまつの5部落が形成された。それ以前は基線道路を境界とし「北線」・「南線」の二組に分けていたが、1917(大正6)年には北線を「第十八部」南線を「第十七部」と称した。翌年には部制を区制にした。1943(昭和18)年に部落会になり、1949(昭和24)年にはくろまつ部落が分離し、新生部落が出来る。
1956(昭和31)年9月には富良野村と東山村が合併し、富良野町字老節布となった。このとき山部村も、との話があったが山部地区は気運熟さずだった。1966(昭和41)年5月山部村と富良野町合併し、富良野市となる。

老節布部落市街地は、1918(大正7)年に神社と小学校が建てられ、神社用地と学校用地20戸分として東大演習林より借地として用意されたものである。当時の1戸当たりは250坪だった。1949(昭和24)年には消防番屋が建てられ、1958(昭和33)年に増田氏により簡易郵便局が置かれる。1967(昭和42)年3月に東大演習林より払下げられ、公共の土地と個人所有となった。
隆盛期には、13戸の商店があり、精米・綿打工場・文房具店・鉄工所・ブリキ店・酒タバコ・鮮魚・菓子・豆腐製造・青果・自転車店・呉服洋服店・パチンコ店・造材、運送業など充実した商店街を形成していたが現在はその面影はほとんど見られない。
1981(昭和56)年樹海西小学校の開設により老節布小学校は閉校。2007(平成19)年樹海東小学校との統合により樹海小学校となる。
碑のすぐそばには神社があるが、1918(大正7)年9月御神体の柱を建て、周りの草を刈り祀った。1925(大正14)年に社を建て祀ったが、1960(昭和35)年現在地に遷移した。祭神は天照大神・春日大神・八幡大神である。


1898(明治31)年、札幌農学校第八農場が下富良野に看守所を置き小作人の募集を開始する。
1899(明治32)年、東京帝国大学農科大学北海道演習林、道庁より土地の公布を受ける。5月富良野村を空知支庁管内から上川支庁管内に編入し、戸長役場を上富良野に置く。9月兜谷徳平が下富良野に官設駅逓を設置する。北海道官設鉄道十勝線(現・根室本線富良野線)として旭川〜美瑛間が開業、辺別駅・美瑛駅を新設。11月美瑛〜上富良野間が延伸開業、上富良野駅を新設。
1900(明治33)年、8月上富良野〜下富良野間が延伸開業、下富良野駅を新設。12月下富良野〜鹿越間が延伸開業、山部信号停車場・金山駅・鹿越駅を新設。東京帝国大学総長菊池大麗が演習林を視察。木道金太郎が駐在員として派遣され調査にあたる。
1902(明治35)年、下富良野神社創祀。
1903(明治36)年、現在の上富良野町から占冠村まで行政区域が及んでいた富良野村は、上富良野と下富良野の2村に分割、富良野村を上富良野村に改称。同年9月下富良野村戸長役場が市街地に設置された。
1906(明治39)年、占冠村を合わせ下富良野村外1ヶ村組合戸長役場設置。東大演習林に保護所を設置。苗圃設営。試験入植を実施する。
1910(明治43)年、官設西達布渡船場が設営。西達布川本流の開拓に着手、22戸が入植する。
1911(明治44)年、下富良野官設駅逓廃止。5月下金山で発生した山火事が延焼し、東大演習林3600町歩の原生林が焼失する。
1913(大正2)年、山部に東大演習林庁舎落成する。10月下金山駅を新設。11月滝川〜下富良野間が開業する。幌倉・上赤平・平岸・下芦別・野花南・奔茂尻・島ノ下の各駅を新設し、滝川〜釧路間を釧路本線と改称し、下富良野〜旭川間を分離し富良野線とする。
1914(大正3)年、入植者の失火により山火事発生する。西達布(現・東山)の市街地区画測量実施。9月西達布神社創祀。
1915(大正4)年、山部村が分村し、二級町村制を施行。山部戸長役場を設置する。東大演習林西達布保護所設置される。
1917(大正6)年、曹洞宗永平寺派西達布説教所(現・富良野市東山658 大仙寺)創立。
1919(大正8)年、下富良野村に町制を施行し、富良野町となる。
1920(大正9)年、東大演習林内、下金山〜すみれ地区まで森林軌道の建設着手。東大演習林西達布作業所設置される。
1921(大正10)年、4月下富良野町に一級町村制施行。
1924(大正13)年、8月西達布開墾記念碑(現・東山神社境内)を建立。
1926(大正15)年、5月十勝岳爆発する。上富良野を中心に死者・行方不明者144名、負傷者200名、流失・破壊家屋372棟という大災害となった。
1931(昭和6)年、東大演習林東山において自家発電行う。
1932(昭和7)年、吉本庄平が下金山〜熊の沢(現・西達布)間のバスを運行する。
1938(昭和13)年、山部に石綿工場3社創立、翌年より生産開始する。
1940(昭和15)年、4月山部村を割き「東山村」を置く。東山地区は「濶葉樹」名・西達布地区は「草」(灌木)名・老節布地区は「針葉樹」名を命名し、老節布ではとどまつ・いちい・くろまつ・あかまつ・からまつの5部落が形成された。
1942(昭和17)年、4月下富良野駅を富良野駅に改称する。
1945(昭和20)年、富良野市街地、3回に渡り米軍機の空襲を受ける。
1947(昭和22)年、東山中学校開校。旧東光・稔地区に入植者が入る。
1948(昭和23)年、旧更新地区に入植者が入る。4月旧新富地区に電灯が灯る。
1949(昭和24)年、11月平沢小学校が開校となる。
1950(昭和25)年、東大演習林老節布地区543町歩開放される。6月東大演習林平沢保護所が開設され、座間猛氏が任に当たる。五十嵐兼五郎氏の所で雑貨店が開店する。
1951(昭和26)年、東大演習林763町歩開放される。
1952(昭和27)年3月土地の売渡が行われ、自作農となる。
1953(昭和28)年、稔・更新地区に電灯が点く。
1954(昭和29)年、平沢地区に水道施設が完成する。
1955(昭和30)年、3月水道の通水開始する。
1956(昭和31)年、10月東山村、富良野町と合併する。
1964(昭和39)年、10月東山遺跡発掘調査行われる。12月東大演習林第二次農地解放で152戸自作農になる。
1965(昭和40)年、1月稔地区と更新が合併し稔部落となる。5月新富と東光が合併し新光部落となる。
1966(昭和41)年、4月山部村と富良野町合併し、富良野市となる。
1967(昭和42)年、金山ダム竣工式挙行。富良野市農業高校(現・富良野市博物館)開校する。
1972(昭和47)年、東郷ダム建設着手(2018(平成30)年現在、完成せず)するが漏水が改善できていない。
1980(昭和55)年、TVドラマ「北の国から」撮影開始。平沢小学校が廃校となる。
1981(昭和56)年、樹海西小学校の開設により老節布小学校は閉校。平沢集落センターを小学校跡地に建設する。
1983(昭和58)年、「樹海」(東大演習林)が、日本の自然百選に選定される。
東山開拓80周年記念誌参考

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