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十勝岳

大雪山国立公園

かみふらの十勝岳観光協会

望岳台

上川管内の美瑛町・上富良野町、十勝管内の新得町にまたがる標高2,077mの活火山である。
十勝川の名として、また十勝の地方名としても使われた(トカプチ)の源流であることが、山名の由来。
前十勝にある62-U火口からは盛んに噴煙が上がり、山頂付近は火山灰に覆われている。
私が撮った写真は62-U火口だろうとおもう。
十勝岳避難小屋と山頂の中間には昭和火口、西の三段山の南には安政火口がある。


十勝岳火山群の歴史は古く、放射性炭素法による調査も入れると紀元前240頃に十勝岳グランド火口噴火、西暦1670頃に十勝岳中央火口丘噴火などもあったそうだ。
その後、有史になってからの火山活動は、安政火口と十勝岳の噴火口群の数箇所に限定され起こっているそうだ。
十勝岳の噴火が歴史に登場するのは1857(安政4)年で、この年、松田市太郎なる人物が石狩川水源踏査の帰途に十勝岳に登頂したとの記録があり、この中で硫気活動についても触れている。
石狩川水源見聞録では旭岳も十勝岳も焼山と書かれていて、十勝の山ではビエ岳、ビビ岳くらいしか名前が無かった様ですが、明治の開拓時代には焼山が十勝岳と呼ばる様になったそうだ。
同年、松浦武四郎は6月2日「山半腹にして火脈燃立て黒烟刺上るを見る」と記している。
1887(明治20)年の噴火は黒煙を噴出し、周辺に降灰したと記録されている。
1917(大正 6)年、平山硫黄鉱業所、十勝岳火口周辺で硫黄採取事業着手。
1923(大正12)年、溶融硫黄の沼を出現させ活動を再開し、十勝岳山麓の丸谷温泉では、温度上昇、湧出量増加。
1925(大正14)年、2月頃より小規模な噴火を繰り返し次第に活発化、中央火口丘の火口内に大噴(おおぶき)火口生成。鳴動、噴煙あり。
1926(大正15)年、4月に小噴火、5月からは小火口を形成、大規模な噴火が発生。
1926(大正15)年、5月24日の12時ごろ発生した水蒸気爆発では、小規模な火山泥流が発生して現在の望岳台付近まで流下した。
同日、16時18分には大規模な水蒸気爆発が起こり中央火口丘の西半分が崩壊、これにより生じた岩屑なだれは噴火から約1分で火口から2.4kmの地点にあった硫黄鉱山の平山鉱業所宿舎を飲み込み、さらに山頂付近の残雪を融かして泥流を発生させた。
この泥流は美瑛川と富良野川を一気に流下し、25分で約25km離れた上富良野市街に到達した。
このときの被害は甚大で、上富良野を中心に死者・行方不明者144名、負傷者200名、流失・破壊家屋372棟という大災害となった。
十勝岳山麓温泉の先駆者として苦心惨憺の結果、温泉を切り開いた丸谷温泉は、施設、住人ともに溶岩と泥流の下に埋没する悲運に遭遇した。そこで、丸谷温泉の遺族は爆発50年を記念し、昭和50年5月24日、望岳台に慰霊碑を建立したものである。
1926(大正15)年、9月8日十勝岳は小噴火を起こし、2名が行方不明となった。
1926(大正15)年、12月25日には噴煙が500mまで上がった。
1928年(昭和3年)12月4日の小噴火、その火口は大正火口と呼ばれた。
このときの噴火を描いた小説が有名な、三浦綾子の『泥流地帯』及び『続・泥流地帯』である。

上富良野町開拓記念館でもそのときの写真や映像などの資料が展示されている。

その後、1952(昭和27)年頃から噴気が活発となり(52年噴気孔群または昭和火口群)、地震も頻発していた。
1953(昭和28)年、磯部硫黄鉱業所、十勝岳大正火口(新噴火口)で事業着手。
1962(昭和37)年6月29日22時40分頃、水蒸気爆発が発生する。
6月30日2時45分には大規模な噴火が発生、噴煙は高度12,000mにも達した。
大正火口付近の硫黄鉱業所には噴石が直撃し、死者・行方不明者5名、負傷者11名を出した。
この噴火は同年8月末には終息、4つの火口(62-0,62-1,62-2,62-3)を残し、最も活発だった62-2火口は今も白い煙を上げている。
1962(昭和37)年噴火では、大正噴火をはるかに上回るエネルギーが放出されていることが報告されている。
1962(昭和37)年、噴火で施設が破壊され廃鉱になるまで、中央火口丘付近からは良質な硫黄が採掘されていた。
1964(昭和39)年、白金温泉に気象庁火山観測所設置。
1971 (昭和46) 年6月、昭和火口の活動停止。
1983(昭和58)〜19878昭和62)年には、群発地震と小噴火を繰り返す。
1985 (昭和60) 年、5月29日熱泥水噴出、6月19・20日ごく小規模な噴火。
1986 (昭和61) 年8月31日 有感地震、白金温泉で震度1。12月3日 有感地震、白金温泉で震度1。
1988(昭和63)年、群発地震を繰り返し、12月には62-2火口から小噴火。
12月24、25日 小噴火・火柱、火山雷、噴石、火砕サージ、小規模火砕流、小規模泥流。
1989(平成元)年、小噴火、群発地震を繰り返し、火砕流の発生を確認し、美瑛町、上富良野町の住民約300名が一時避難、その後沈静する。
1997(平成9)年からは、空振を伴う火山性地震、噴気を観測。
2004(平成16)年2月、4月、有色噴煙や振幅の小さな火山性微動を観測。
2008(平成20)年12月16日に噴火予報(噴火警戒レベル1、平常)を発表。そのまま現在に至る。

現在は、地震計、空震計、GPS観測点などのテレメトリー観測、治山事業、砂防事業、被災範囲や避難経路などを整備。
白金温泉地区には、泥流・土石流の流下を完全に防ぐことは難しいことから、白金温泉の高台には避難所が設置されている。
現在は、十勝岳への登山もできるがしっかりとした登山装備が求められる。

望岳台コース
望岳台登山口より入山、摺鉢火口を通り、前十勝岳を回り込むようにして登る。大正噴火の泥流跡を登ることとなり最も容易。美瑛町が2008(平成20)年10月に旧避難小屋の上手、標高1330m付近に避難小屋を再建し、現在は利用可能となっている。

三段山コース
現在では滑落の危険があるため通行禁止となっている。

上ホロカメットク山コース
十勝岳温泉より入山し、安政火口から上ホロカメットク山へ登頂、「馬の背」と呼ばれる部分を通って十勝岳へ。

空からも眺めることができ、旭川空港へ進入する機体からは、雪を被った十勝の山々が右手に見える。
並ぶ峰々の中、白い噴煙の帯が空に昇っている場所を探せばわかるだろう。
かつて、ここには国設スキー場もあったが閉鎖されている、ここのスキー場は吹きつける風で体の芯まで冷えあがるリフト、雪は風で吹き飛ばされ、カチカチに凍ったアイスバーン、決して滑るには条件のいい場所とは言えなかった。



松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

松田市太郎とは、函館奉行所石狩在勤の足軽とされていて詳細は不明。
松田岳(標高2136m )という山もあり、お鉢平カルデラの外輪山にあり、由来は、江戸時代に未開の地であった大雪山を踏破し、石狩川の水源を発見し「イシカリ水源見分書」を残した松田市太郎の功績により松田岳と命名された。
1857(安政4)年に、美瑛川上流から十勝岳に登頂し、硫黄を持ち帰ったことが『イシカリ川水源見分書』に記録されているそうだ。

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