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山崎與吉(与吉)翁頌徳碑

住所 上川郡美瑛町字下宇莫別

一般社団法人 美瑛町観光協会

上川の由来は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を意訳したもの。
美瑛とはアイヌ語の「ピイェ」(油ぎった川、濁った川)より転訛したもので、どの土地を掘っても濁り水が出たことに由来するそうで、開拓者が「ビエイ」と訛って呼んでいたものに「美しく、明朗で王者の如し」という意味の「美瑛」の漢字があてられた。
宇莫別の由来は、アイヌ語の「ウ・パク・ペッ」(相匹敵する川)、隣の辺別川本流に対し相匹敵する流量であること。ちなみに辺別川の由来は、アイヌ語の「ペ・ペッ」(水・川)に由来する。
道道213号天人峡美瑛線沿いにあり、JR北海道富良野線北美瑛駅のすぐそば、国道237号線(美瑛川砂利砕石販売協業組合の交差点)から北美瑛駅に向かい350mほど。

富良野線北美瑛駅のすぐ近くのT字路交差点の傾斜地に建つこの石碑は説明文などは一切ない。
下宇莫別の地主として尽力したようだ。山崎與吉(与吉)氏は現在の男山酒造株式会社の創業者であり、当時農場経営を夢見て、美瑛の開拓に携わったようであり、その業績を讃えた碑である。
1898(明治31)年山崎与吉の兄である山崎与次が旭川より宇莫別辺りを踏査する。
1899(明治32)年4月山崎与治は長谷川喜太郎、丸山仙蔵を伴い宇莫別に入植する。9月北海道官設鉄道十勝線(現・富良野線)として旭川〜美瑛間が開業、辺別駅・美瑛駅を新設。
1900(明治33)年6月神楽村より分離し、美瑛村となる。戸長役場が設置される。10月仮説教所(後の慶雲寺でその後本勝時)を開設する。このときのことを山崎家履歴便概に「慶雲寺ができたとき、諸橋亀吉・兄の山崎与治の三名で敷地3町歩を寄附した」とあるが、宇莫別100年史だと下宇莫別神社の建立により3反を山崎与吉・諸橋亀吉両氏の寄付とある。
1904(明治37)年、山崎与吉は開拓地が馬鈴薯の適地であり、主な作物だったことから澱粉工場を宇莫別湖畔(小林宅付近)に作った。日本型水車5馬力の動力だった。
1905(明治38)年には、33坪の下宇莫別説教所(現・本勝寺)を新築する。
1909(明治42)年1月宇莫別にて灌漑用水路の掘削、設置を申請(山崎与吉・山崎与治・諸橋亀吉氏が発起人となる)し、宇莫別水利組合を組織する。3月工事監督山崎与治、山田弥吉他5名により工事着工する。
1910(明治43)年11月下宇莫別説教所が慶雲寺(現・本勝時)となる。
1933(昭和8)年、6月慶雲寺(現・上川郡美瑛町中町2丁目1-7)が移転する。
1936(昭和11)年、慶雲寺跡に本勝寺が創始。この敷地内に兄である山崎与治氏の顕彰碑もある。
碑の建立は1955(昭和30)年5月だが、1983(昭和58)年11月に現在地に移転した。 坂東幸太郎氏が撰書した。

碑文
山崎與吉翁新潟県南蒲原郡中之島村之人也明治三十一年五月旭
川来住営酒造業翁夙北門開発志篤永地美瑛宇莫別草濛荒樹面積
七十余町歩迎開拓熱意之士三十余戸之等諸人日夜開拓先人未踏
之荒野終化之良田美圃翁感激其業績昭和二十二年三代與吉時代
開放此地全部以附之等人々敢無所惜嗚呼今此翁亡茲追想翁之人
格不忍忘建立此頌徳碑以傳後世如翁真可稱俗世達人也
正四位勲三等 坂東幸太郎 撰書

以前は碑のそばまでは道が無かったが、現在はスロープが造られている。

宇莫別地区は、アイヌ語の「ウ・パク・ペッ」(相匹敵する川)、隣の辺別川本流に対し相匹敵する流量であること。とあるが、原名はアイヌ語の「オパロペッ」(川尻の口)、宇莫別川が朗根内川に合流する川尻を下、遡って中、上宇莫別の三部に分れた部落で、開拓も1898(明治31)年山崎与吉の兄である山崎与治が旭川より宇莫別辺りを踏査する。この山崎氏(1885(明治18)年に新潟県から一族が渡道し、札幌の平岸に入植し農業に従事し、その後宇莫別に移り住んだ)が草分けとなった。札幌に住んでいるときに、山形県人の奥山喜太郎氏が道庁官吏を退官するときに宇莫別湖畔に300町歩の貸付許可を得た。これの開拓監督として入地したのである。
1899(明治32)年4月山崎与治は長谷川喜太郎、丸山仙蔵を伴い宇莫別に入植する。池田常吉も宇莫別に入植する。9月北海道官設鉄道十勝線(現・富良野線)として旭川〜美瑛間が開業、辺別駅・美瑛駅を新設。
 開拓当時は、アブや蚊などがひどく、これを防ぐのが至難だったという。ボロ切れに火をつけてその煙で虫の来襲を防ぎながら開拓を進めた。食べ物はイナキビ、麦、蕎麦、玉蜀黍(トウモロコシ)などが常食で、米は到底食べれなかった。昼なお暗い鬱蒼たる原生林と、笹に難儀する。当時は火をかけて山野を焼き、跡地を一鍬、一鍬興していったのである。
 1904(明治37)年には、小樽の丸金商会が丸金製軸工場を開設、山崎製粉工場が創設される。製粉の年間生産は1万5000斤(12貫(45kg入り200袋))価格は840円。当時の賃金が男50銭、女25銭だった。
 農場は、奥山農場が最も早く1899(明治32)年に宇莫別湖畔に300町歩、1905(明治38)年2月には入江農場が開設する、農場主は入江勘蔵で126町歩だったが場所が辺境の地だったことから食料品やその他の必要物資を買うにも駄馬で1里ほど運ばなければならなかった。1910(明治43)年3月浜田農場の創設。農場主兼管理者は柴田富吉。この農場は鹿児島県人の浜田愛次郎氏の所有であったが、彼は第七師団の御用商人だったことから余力がなく、柴田氏に委ねたものである。面積は200町歩。9月三井農場の創設。道庁より不要存置林2557町の払下げを受けて開設した。しかし起伏の多い丘陵地帯で、15〜30度の傾斜地を含んでいたこともあり開拓は容易ではなかった。農場主は三井物産株式会社、管理人は内田茂太郎。11月下宇莫別説教所が慶雲寺(現・本勝時)となる。1911(明治44)年10月赤羽農場の創設。農場主は赤羽雄一、管理人は浦伝吉、面積は90町歩。水田を進めたが、1915(大正4)年7月に起こった大洪水に見舞われ、死者27名を出す。この時に耕地20余町歩を流出し、四谷一氏が放牧地として330町歩を隣接する高地に持っていたものを買受け、大規模に展開した。

ちなみに山崎與吉歌碑は、国道40号線を旭川市街地から約12kmほどに突哨山(とっしょうざん)があり、男山自然公園の公園の頂上付近には社が祭られており、横には一辺30cm、高さ1.6mの四角柱の歌碑がある。


1807(文化4)年、近藤重蔵 利尻からの帰途上川地方を探検。上川に番屋が置かれる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が上川探検し、アイヌ人306人を確認している。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。
1877(明治10)年、鈴木亀蔵(通称 亀吉)、上川郡初の和人定住者となり、交易雑貨商をを営む。。(上川最初の和人定住者)
1883(明治16)年、樺戸集治監らによる樺戸郡浦臼太〜上川郡までの地理・地形・水利調査を行う。
1885(明治18)年、岩村通俊永山武四郎一行、上川に入り、近文山より国見をする。
1886(明治19)年、空知太(現・滝川)〜忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により、上川仮道路開通する。
1888(明治21)年、上川二等測候所開設する。
1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。笠原喜助によって永山村に笠原酒造店を創業。4月北見道路の開削。空知監獄囚人により忠別太から開始する。
1891(明治24)年、永山村(現・旭川市永山)に屯田兵400戸入地する。神居・雨粉で杉沢繁吉が水稲の作付を開始するも失敗。4月網走分監による網走〜上川間の道路開さく着工し、同年末に完成し「中央道路」と呼ばれる。
1892(明治25)年、旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸入地する。笠原酒造店が曙に酒造場を始める。
1894(明治27)年、9月兵庫県人の小林直三郎他2名が旭(辺別太)に入植し、旭農場を創設する。
1895(明治28)年、3月小野恒は貸付を受けて小野農場を創設する。山形県人の三沢藤助が小野農場に入植する。
1896(明治29)年、4月和歌山県人の田中儀太郎他23名が美瑛原野に入植する。村医として園田実が着任する。現在の市街地も開墾される。渋沢農場創設する。
1897(明治30)年、3月新潟県人の藤島勝三郎が雑貨商を営む。9月美瑛神社の創建。10月兵庫県人の早崎悦太郎他22名が美瑛原野に入植する。
1898(明治31)年、山崎与吉の兄である山崎与治が旭川より宇莫別辺りを踏査する。10月井上農場が創設される。
1899(明治32)年、4月山崎与治は長谷川喜太郎、丸山仙蔵を伴い宇莫別に入植する。9月北海道官設鉄道十勝線(現・富良野線)として旭川〜美瑛間が開業、辺別駅・美瑛駅を新設。白田・春日が商店を開く。10月美瑛小学校が開校する。11月美瑛〜上富良野間が延伸開業、上富良野駅を新設。
1900(明治33)年、5月田中牧場、半沢農場が創設。6月神楽村より分離し、美瑛村となる。戸長役場が設置される。戸数297戸、1171人。10月仮説教所(後の慶雲寺でその後本勝時)を開設する。
1901(明治34)年、第七師団司令部を札幌より旭川に移転。美瑛にて水稲の試作が行われる。10月藤野四郎兵衛が藤野農場を創設する。美馬牛原野を共同牧場として無償貸付される。
1903(明治36)年、山崎与治、与平次親子が、1反半、山崎峰吉、山田仁平らが赤毛種の種を直播するが霜などにあい失敗する。
1904(明治37)年、山崎与吉は開拓地が馬鈴薯の適地であり、主な作物だったことから澱粉工場を宇莫別湖畔に作った。日本型水車5馬力の動力だった。小樽丸金マッチ軸工場が操業する。
1905(明治38)年、5月十勝岳で硫黄採取開始する。10月美瑛川が大氾濫する。この年極早生種の水稲を試作し成功する。
1906(明治39)年、7月美瑛神社が造営される。美瑛演習場規則が公布される。大久保農場が創設。8月沼崎重平が美瑛村の開拓医として北海道に赴き、沼崎医院を開業する。
1907(明治40)年、2月陸軍第七師団美瑛演習場が設定される。小野恒氏所有の14町歩を陸軍に献納する。7月美瑛神社が新築落成する。
1908(明治41)年、五十嵐忠作が装蹄所を開設する。この頃の美瑛は自作農103戸、小作農468戸だった。
1909(明治42)年、1月宇莫別にて灌漑用水路の掘削、設置を申請し、水利組合を組織する。3月工事監督山崎与治、山田弥吉他5名により工事着工する。辺別太に村有林181町歩を設定する。
1910(明治43)年、11月下宇莫別説教所が慶雲寺(現・本勝時)となる。9月三井農場、浜田農場の創設。
1911(明治44)年、10月赤羽農場の創設。
1912(明治45・大正元)年、宇莫別の開拓監督である山崎与治氏の碑を建立する。村の墓地が宇莫別にできる。ルベシベ御料地の開拓がはじまる。
1913(大正2)年、4月俵真布の開拓が始まる。忠別の開拓が始まる。宇莫別灌漑用水が完成する。下富良野〜旭川間を分離し富良野線とする。美瑛と上富良野に沼崎農場を作る。
1914(大正3)年、宇莫別にて豆腐屋開業する。
1915(大正4)年、4月二級村政施行する。7月大洪水に見舞われ、死者55名を出す。10月役場庁舎新築落成。
1916(大正5)年、5月石山の石材採掘開始する。
1920(大正9)年、5月市街地にて電燈が灯る。
1923(大正12)年、4月1級町村制施行。
1926(大正15)年、十勝岳が大爆発を起こす。5月24日の12時ごろ発生した水蒸気爆発では、小規模な火山泥流が発生して現在の望岳台付近まで流下した。同日、16時18分には大規模な水蒸気爆発が起こり中央火口丘の西半分が崩壊、これにより生じた岩屑なだれは噴火から約1分で火口から2.4kmの地点にあった硫黄鉱山の平山鉱業所宿舎を飲み込み、さらに山頂付近の残雪を融かして泥流を発生させた。この泥流は美瑛川と富良野川を一気に流下し、25分で約25km離れた上富良野市街に到達した。このときの被害は甚大で、上富良野を中心に死者・行方不明者144名、負傷者200名、流失・破壊家屋372棟という大災害となった。美瑛〜上富良野間の鉄道が不通となる。9月美馬牛駅を新設する。
1927(昭和2)年、十勝岳爆発の被災者がルベシベ地区に移住する。43戸。9月自作農創設事業始まる。
1930(昭和5)年、4月上川畜産組合美瑛集乳所が開設。6月美瑛神社が村社に昇格する。
1931(昭和6)年、8月二股に福島県より76戸が入植する。
1933(昭和8)年、6月慶雲寺(現・上川郡美瑛町中町2丁目1-7)が移転する。
1935(昭和10)年、上俵真布に駅逓設置する。
1936(昭和11)年、慶雲寺跡に本勝寺が創始。
1937(昭和12)年、9月に聖台ダムが完成。北海道初の大規模灌漑用アースダムは、国内外からも注目された。
1940(昭和15)年、4月町制施行し美瑛町となる。
1941(昭和16)年、4月集乳所が北海道興農公社美瑛集乳所となる。
1946(昭和21)年、海外引揚者1554人が移住する。
1949(昭和24)年、2月旭川司法事務局美瑛出張所開庁する。9月美馬牛に上水道完成する。
1950(昭和25)年、5月美瑛町立病院開設。市街地の舗装化工事に着手する。温泉が湧出し白金温泉と命名した。
1952(昭和27)年、1月美瑛駅舎改築する。忠別部落の離町問題が起こる。
1953(昭和28)年、美瑛役場庁舎新築落成。
1955(昭和30)年、4月行政区設定する。水沢・美沢地区に電気が灯る。6月沼崎重平翁彰徳碑を建立。
1959(昭和34)年、9月町立病院新築落成する。旭川気象台火山観測所開設する。
1962(昭和37)年、2月白金ゲレンデにスキーリフト設置。6月29日22時40分頃、十勝岳で水蒸気爆発が発生する。6月30日2時45分には大規模な噴火が発生、噴煙は高度1万2000mにも達した。大正火口付近の硫黄鉱業所には噴石が直撃し、死者・行方不明者5名、負傷者11名を出した。この噴火は同年8月末には終息、4つの火口(62-0・62-1・62-2・62-3)を残し、最も活発だった62-2火口は今も白い煙を上げている。噴火で施設が破壊され廃鉱になるまで、中央火口丘付近からは良質な硫黄が採掘されていた。
1963(昭和38)年、8月鴻上覚一氏の胸像の除幕式挙行。11月新区画ダム起工式。
1964(昭和39)年、白金温泉に気象庁火山観測所設置。6月駅前広場の造成開始。
1967(昭和42)年、5月置杵牛頭首工の通水式を挙行。6月ポテトワックス・ポテトミール工場操業開始。
1968(昭和43)年、8月上川支庁開拓パイロット美瑛事業所設置する。9月国設キャンプ場第一期工事完成する。12月役場新庁舎増築し完成する。
1969(昭和44)年、6月美沢2.3区のパイロット事業起工する。10月望岳台のレストハウスオープン。11月開拓記念碑除幕式挙行。12月十勝岳スキー場オープンする。
1971 (昭和46) 年、6月昭和火口の活動停止。十勝岳スキー場第二リフト設置する。
1973(昭和48)年、1月白金改良8号井竣工する。7月白金ゴルフ場起工式。しろがねダム本体工事始まる。
1974(昭和49)年、6月白金野鳥の森オープンする。8月しろがねダム定礎式挙行。9月白金クレー射撃場オープン。
1975(昭和50)年、7月新区画ダム完工式挙行。山形県よりホタル700匹寄贈される。9月SL機関車を中町公園に設置する。12月澱粉工場閉鎖となる。
1976(昭和51)年、7月白金ゴルフ場オープン。
1977(昭和52)年、11月白金13号井竣工する。
1987(昭和62)年、フォトギャラリー「拓真館」オープン。
1988(昭和63)年、十勝岳で群発地震を繰り返し、12月には62-2火口から小噴火。12月24、25日 小噴火・火柱、火山雷、噴石、火砕サージ、小規模火砕流、小規模泥流。
1989(平成元)年、十勝岳は小噴火、群発地震を繰り返し、火砕流の発生を確認し、美瑛町、上富良野町の住民約300名が一時避難、その後沈静する。
1999(平成11)年、美瑛町開基100年式典挙行。
2001(平成13)年、4月十勝岳火山砂防情報センターオープン。
2007(平成19)年、丘のくらが道の駅びえい「丘のくら」となる。
2012(平成24)年、新図書館オープン。
2018(平成30)年、道の駅びえい「白金ビルケ」オープン。
美瑛町史第三巻・第四巻・第五巻参考

43.617241, 142.480109
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