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明里開基百年碑

住所 苫前郡初山別村豊岬
初山別村

苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」(エゾエンゴサクのある所)が転訛したもの。
初山別の由来は、アイヌ語「シュサンペツ」(小さい沢のある川)、または「ソウサンベツ」(滝がそこで流れ出ている川)など諸説ある。開拓当初は、朱参別・聚参別などの漢字を当てた。1941(昭和16)年の字名改正で初浦となり、1965(昭和40)年字初浦を初山別と字名改正する。
豊岬の由来は、アイヌ語の「フウレ・ベツ」(赤い・川)、かつでは番屋が在ったところで交通の要衝であった。1941(昭和16)年の字名改正で金比羅岬を含む臨海部落にて、豊漁なことから豊岬と命名した。
明里の由来は、明朗なる農家地帯の意。
初山別市街地の国道232号道道448号千代田初山別停車場線の村役場がある交差点から天塩方向に約4.4kmの斜め左に側道を約180mほど右手の側道そば。

初山別村簡易郷土資料館の向い側の芝生の中にある。1997(平成9)年7月に建立した。国道を挟んだ向かい側が明里地区になるのでこの場所に建立したものと思われる。

碑文
 現在より遡る事百年、明治参拾壱年未開の、北の大地
に希望に燃えて熊笹や大木と戦い開拓の鍬を入れ血と汗
と涙を流し乍子孫への美田を残すべく日夜努力をし辛苦
の農耕を続けて星霜を重ねること百年、今我々は深い緑
の山々に囲まれ母なる川のせせらぎを聞き恵まれた家庭
生活、近代的農業経営の出来るこの幸せは、先人の尊い
努力の賜であり、この偉大な遺徳を偲び深く深く感謝し
併せて我が郷土を愛し続ける南、北明里の限りない発展
を願い茲に本記念碑を建立する。
明里地区住民一同
平成九年七月吉日
功労者 割愛

明里地区は、村の北部に位置し、当時はアイヌ語の「フウレ・ベツ」(赤い・川)からとった「フウレンベツ原野」・「フーレベツ原野」と呼ばれ、1898(明治31)年富山、新潟、熊本などから団体、単独移住者が増える。茂築別、初山別、風連別、歌越別に入植し開墾に従事する。この頃から「風連別原野」が一般化していく。この年は凶作だった。開村後は、風連別川本流以北を風連別北原野、以南を風連別南原野と呼んだ。富山県人の伊藤甚吉を代表とする下新川郡片貝谷村(現・富山県魚津市貝田新付近)団体が入植したのが始まりである。
風連別川河口付近と、海岸部(現・豊岬地区)は早くから開けていたが、原野の開拓は少し遅れた1897(明治30)年初山別、茂築別、風連別各原野の区画設定される。1899(明治32)年風連別原野に永田総七率いる越中団体が本格的に開墾に着手する。1900(明治33)年羽幌村外一村戸長役場の管轄に入る。風連別南原野に遙拝所(ようはいじょ・現南明里神社)が建立される。1901(明治34)年9月羽幌村から分離し、初山別村戸長役場を設置する。風連別簡易教育所を設置する。12月天塩〜名寄間、天塩〜苫前間の仮定県道の全線開通する。1903(明治36)年岩見沢村から来た岡村松雄・藤井隼太郎が風連別に殖民地区画外の貸付を受けて牧場経営に着手する。明治末期頃には造田事業が始まる。冬には炭焼き(木炭生産)が行われる。御料林から木材の切り出しが行われ、風連別川を利用した流送や馬橇での運搬が行われ、農家の副業となった。1907(明治40)年苫前郡は凶漁となり生活に困る人々がでる。風連別簡易教育所が尋常小学校になる。風連別北原野に遙拝所(ようはいじょ・現北明里神社)建立する。風連別南原野の神社社殿を改築する。1911(明治44)年南原野の木下善平がリンゴの栽培に着手する。1912(明治45・大正元)年風連別南北灌漑溝を開削する。
 1913(大正2)年風連別南御料地が解放され10戸入植する。1914(大正3)年風連別北御料地が解放され7戸入植する。1916(大正5)年風連別北原野乙線道路竣工する。この年南原野の木下善平がリンゴの栽培から初めて結実する。1922(大正11)年風連別南原野に灌漑溝完成する。1923(大正12)年風連別南原野にて水稲試作する。
 1930(昭和5)年風連別高台にて水門勝麿が養蜂を始める。1931(昭和6)年水門勝麿の養蜂がヒグマの被害に遭い全滅する。1932(昭和7)年水門勝麿が養蜂を再開する。1941(昭和16)年初山別村字名地番改正する。新字名は明里で、北・南明里となった。1946(昭和21)年開拓移民緊急入植。大阪団体22戸、他5戸が入植するがほとんどが離農する。1960(昭和35)年この地区には開拓以来小学校が無かったが、住民の要望により豊岬小学校明里分校が設置される。1963(昭和38)年には南明里地区道営温水施設事業(溜池を利用した水温上昇を目的としたものではないだろうか)が行われる。1966(昭和41)年明里苗圃事業が開始される。1968(昭和43)年豊岬小学校明里分校は過疎化に伴い閉校となる。1969(昭和44)年〜1980(昭和55)年にかけて北・南明里地区の圃場整備事業を実施する。1972(昭和47)年風連別川にてカラフトマス50万匹が放流される。1986(昭和61)年南明里に鮭鱒増殖施設(サクラマス飼育センター)が完成する。


1634(寛永11)年、トママイ交易場所開かれる。
1670(寛文10)年、この年に書かれた「寛文拾年狄蜂起集書」に「ともまい」の地名がある。
1689(元禄2)年、松前藩士蛎崎七之丞が藩命で西蝦夷地である留萠、天塩海岸を調査する。
1690(元禄3)年、松前藩が藩士と工夫を羽幌地区に派遣し、砂金を採取する。
1719(享保4)年、飛騨屋久兵衛が、石狩、天塩国の蝦夷松を伐採し、用材を本州に出す。
1781(安永10・天明元)年、松前広長が著した松前志(北倭志、松前から蝦夷地の地理、風俗、産物(禽獣・魚介・穀類・菜類・芝蕈・海草・薬品・貨財・石土)に分け解説した。他にもカラフト地理の考察もあった)にモロクベツ(現・有明)、シュシヤヘツ(現・初山別)、オタコベツ(現・共生)の地名が出ている。
1786(天明6)年、場所請負制が始まり、紀伊国商人の栖原屋角兵衛を請負人とする。
1798(寛政10)年、松平忠明が東西蝦夷地を巡視し、天塩を経て宗谷に達する。
1801(享和元)年、4月松平忠明が再び天塩を経て宗谷に達する。
1804(文化元)〜1818(文政元)年、この頃間宮林蔵この沿岸を測量(伊能忠敬の全島沿岸実測図として完成)。苫前に運上屋を建てる。
1806(文化3)年、遠山金四郎、勘定吟味役、村垣左太夫巡視する。セタキナイ(現・第一栄)に4戸、フウレベツ(現・豊岬)にトママイ持番屋1軒蝦夷家5戸あり。
1807(文化4)年、西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。近藤重蔵が巡視する。チョウチョウナイ(現・大曲〜第三栄)に漁家1戸、アイヌ17人居住。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。松田伝十郎が宗谷・樺太を巡視し増毛で年を越す。フウレベツに通行屋1軒、アイヌ1戸。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が天塩に訪れる。モチクベツ(現・有明)に昼休所、仮小屋、アイヌ1戸あり。フウレベツに弁天社、コタコシベツ(現・共生)に小休所、番屋1軒、アイヌ1戸あり。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。苫前は秋田藩の警備地となる。
1856(安政3)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。フウレベツ(現・豊岬)に止宿所、弁天社、アイヌ2戸。
1857(安政4)年、6月6日松浦武四郎が天塩川河口からさかのぼり、源流近くまでを探検する。窪田小蔵らが通過し協和私役を著す。フウレベツに板橋あり、トママイの持番屋あり。
1859(安政6)年、天塩、苫前、留萠、天売、焼尻が庄内藩領になる。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、手塩国に6郡が設けられる。(増毛、留萌、手塩、上川、中川、苫前)苫前郡となる。8月天塩地方は水戸藩領となる。
1870(明治3)年、留萠郡は山口藩の支配となる。天塩郡など一帯の場所持だった栖原屋は権利を失うが出稼ぎという名目で事業は継続される。
1871(明治4)年、各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は、天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。
1872(明治5)年、9月開拓使宗谷支庁がおかれ、天塩国、北見国の宗谷、枝幸、利尻、礼文がその管轄下となる。
1873(明治6)年、2月開拓使宗谷支庁が留萠に移され留萠支庁となる。 1874(明治7)年、ライマン技師が天塩を出発し、馬にて遠別町を通過し、地質調査を行いながらフーレベツ(初山別村)に一泊し苫前に向かう。
1875(明治8)年、3月開拓使留萠支庁が廃され、開拓使札幌本庁の管轄下となる。出張所を置く。
1876(明治9)年、開拓使は大小区画制の実施にあたり、30大区、166小区にわける。苫前郡を苫前村、白志泊村、力昼村、焼尻村、天売村に区画。漁場持ちを廃止し、漁場を割り渡す。
1879(明治12)年、7月留萠に留萠、増毛、苫前、天塩、中川、上川の郡役所を置く。
1880(明治13)年、 3村(苫前村・白志泊村・力昼村)の戸長役場を苫前村に設置される。苫前戸長役場に属する。
1881(明治14)年、郡役所増毛に移り、増毛外五郡役所と改称する。
1882(明治15)年、開拓使廃止され、苫前郡は札幌県に属す。
1884(明治17)年、藤田万助が苫前地区で初めて稲を収穫する。
1886(明治19)年、4月北海道庁を設置する。伊勢福太郎が茂初山別に入植し、農耕の傍ら旅人宿を営む。
1887(明治20)年、林長右衛門が漁業を営む。
1888(明治21)年、佐々木平吉が初山別に入地する。林長右衛門が風連別に入地する。
1890(明治23)年、この頃初山別沿岸には漁場10ヶ所ほどあった。初山別、風連別に稲荷社を建立する。林長右衛門が駅逓を営む。
1891(明治24)年、フレベツに船水惣五郎が農耕の傍ら旅店を営む。
1892(明治25)年、初山別沿岸に砂金発見され、居住者が増える。風連別に市街地が形成される。
1893(明治26)年、「風連別」をもって村称とする建議がある。藤原重が商店を営む。
1894(明治27)年、苫前郡苫前村が白志泊村を編入、苫前郡羽幌村(現・羽幌町)を分村する。初山別は羽幌村に属する。羽幌村は353戸、964人。朱参別原野150万坪、茂築別原野150万8600坪、の調査を実施する。この頃海扇(ホタテ貝)がよく獲れた。砂金採取人が増える。生保内弥助が栄坑の鉱区を設定する。榊原利七が旅館を開業する。石黒文四郎が造舟所を開業する。佐々木平吉が1000坪を寄付し、現・法泉寺(苫前郡初山別村字初山別160))の前身である曹洞宗説教所を設置し、横山宜範が布教にあたる。
1895(明治28)年、羽幌川渡船場を廃して橋を架橋する。この頃までに鰊漁の出稼ぎ漁夫は1000人以上となる。栖原漁場を三井物産に託す。砂金最盛期を迎える。築別からハラキナイ沢にかけて160人ほどが砂金採取する。今田シケが秋田屋旅館を開業する。石黒文四郎が人馬継立所を設置する。風連別に郵便局開所。
1896(明治29)年、茂築別、初山別、風連別、歌越別原野が解除される。岡田佐助が栄坑区を譲り受ける。小柴熊太郎が茂築別にて駅逓・居酒屋を営む。中居惣平が商店を営む。大沢広治が村医となる。長田智秀が現・真秀寺(苫前郡初山別村字初山別169)の前身である真宗大谷派説教所を開設する。
1897(明治30)年、郡役所廃止に伴い増毛支庁を設置する。苫前村から羽幌村が分離する。羽幌村に属する。初山別の戸数は、160戸、モチクベツ・チョンチョンナイには3戸、風連別に6戸、鰊着57統、刺網925放、増毛・鬼鹿・焼尻方面から追鰊くる。初山別、茂築別、風連別各原野の区画設定される。富山団体がモチクベツ原野の下見に来る。オタコシベツに貂(テン)取り70人入地する。前田安次郎が薬店を開業する。この年回漕店1、料理屋7、酢子屋45戸あり。セタキナイ炭礦で採炭始まる。船水惣五郎が風連別駅逓を営む。
1898(明治31)年、藤山要吉が回漕店の舟を帆船から汽船に切り替える。富山、新潟、熊本などから団体、単独移住者が増える。茂築別、初山別、風連別、歌越別に入植し開墾に従事する。この年は凶作だった。セタキナイ(轡炭礦)炭山に出稼ぎに行くものが増える。初山別尋常小学校が独立する。官設駅逓・聚山別駅逓所設置する。取扱人は榊原利七となる。初山別の稲荷神社が倒壊する。現・蓮長寺(苫前郡初山別村字初山別164)の前身である日蓮宗説教所設置する。
1899(明治32)年、5月増毛支庁管内の天塩国上川郡を上川支庁に移管する。茂築別原野に岩井農場、初山別原野に寺坂農場、オタコシベツ原野に桑原農場が出来て開墾に従事する。茂築別原野に大原武一率いる越中団体、初山別原野に藤門次率いる越後団体、風連別原野に永田総七率いる越中団体が本格的に開墾に着手する。三角熊雄が材木屋を開業する。吉川竹次郎が菓子店を開業する。茂築別に神社社殿建立する。
1900(明治33)年、4月歌越別簡易教育所(現・初山別村)開校する。羽幌村の北部を分割し初山別村新設する。羽幌村外一村戸長役場の管轄に入る。初山別の人口は497戸、1747人。
1901(明治34)年、9月羽幌村から分離し、初山別村戸長役場を設置する。茂築別植民道路開削する。オタコシベツ官設渡船場の位置が決定する。草楷源助が湯屋業を営む。風連別簡易教育所を設置する。12月天塩〜名寄間、天塩〜苫前間の仮定県道の全線開通する。
1902(明治35)年、立崎熊次郎が茂築別原野58万2200坪の貸付を受けて開墾に着手する。初山別神社の社殿を新築する。
1903(明治36)年、岩見沢村から来た岡村松雄・藤井隼太郎が風連別に、天登雁(現・鬼鹿)から花田伝作が初山別に、殖民地区画外の貸付を受けて牧場経営に着手する。セタキナイで土居道郎、憲郎らが牧場を経営する。茂築別簡易教育所設置する。茂築別に住む上田勇左衛門が富山県の「獅子舞」を継承する。
1904(明治37)年、鰊豊漁に沸く。榊原人馬継立所を設置する。オタコシベツ川官設渡船場新設する。歌越別神社建立する。
1905(明治38)年、風連別稲荷神社社殿を建立する。
1906(明治39)年、ニシン漁不漁期に入る。茂築別神社を移転する。初山別市街で大火が起こる。
1907(明治40)年、苫前郡は凶漁となり生活に困る人々がでる。初山別の人口は582戸、2620人。増毛〜稚内間の仮県道が設定される。風連別簡易教育所が尋常小学校になる。風連別北原野に神社建立する。風連別南原野の神社社殿を改築する。
1908(明治41)年、水稲作付10反、成功し5石の収穫を見る。椎茸栽培、養蚕が行われる。オタコシベツ原野で水稲試作する。初山別市街地にて大火。セタクコナイにて浅羽靖が砂金採取する。
1909(明治42)年、二級町村制を施行する。柴田弁吉がホタテの製法を広める。初山別村羽幌病院分院が開院する。
1910(明治43)年、寺崎鹿次が風連別に於いて水田の必要性を部落民に説いて回る。浅羽靖がセタクコナイ(第一栄)にて牧場経営する。茂築別尋常小学校となる。歌越別教育所は廃校となり、遠別第五教育所に統合される。
1911(明治44)年、茂築別にて水稲試作する。収量は不明。モセタキナイ特別教授所(栄小学校の前身)が開校する。初山別尋常小学校高等科を併置する。山火事が発生し被害甚大となる。
1912(明治45・大正元)年、人口は717戸、4430人。ホタテが豊漁。風連別南北灌漑溝を開削する。武田甚吉が人馬継立所を開業する。
1913(大正2)年、風連別南御料地が解放され10戸入植する。
1914(大正3)年、9月増毛支庁を留萌支庁に改め管下に入る。風連別北御料地が解放され、7戸入植する。
1916(大正5)年、藤山要吉が回漕店を藤山海運株式会社に改称する。風連別北原野乙線道路竣工する。
1921(大正10)年、町制施行し羽幌町となる。風連別尋常小学校校舎全焼する。
1923(大正12)年、国鉄羽幌線着工する。
1927(昭和2)年、人口は661戸、3858人。作物豊作、鰊漁豊漁。初山別尋常高等小学校校舎新築する。茂築別尋常小学校校舎改築する。風連別尋常小学校増築する。
1929(昭和4)年、役場庁舎改築する。苫前郡の鰊漁凶漁。茂築別神社移転する。
1931(昭和6)年、養蚕、養鶏が盛んになる。
1932(昭和7)年、国鉄羽幌線(羽幌迄)開通する。区制改正し、20区の呼称を改正する。
1934(昭和9)年、区制を21区にし、歌越別を分割する。前後して鰊の凶漁(豊漁の年もあり)続く。
1936(昭和11)年、10月天塩線天塩〜遠別駅間が延伸開業し、更岸駅・丸松駅・遠別駅を新設する。茂築別神社新築する。
1938(昭和13)年、国鉄羽幌線の羽幌〜遠別間の工事着工する。
1940(昭和15)年、セタキナイ三坂炭礦開鑛式挙行。奉安殿を初山別高等小学校に新築する。
1941(昭和16)年、初山別村字名地番改正する。新字名は有明・栄・初浦・千代田・豊岬・明里・大沢・共成・御料となる。字名改正により学校名も改称する。セタキナイ三坂炭礦閉鑛となる。12月国鉄羽幌線羽幌〜築別間延伸開業する。12月羽幌炭礦鉄道線開業する。羽幌線の築別以北の工事が中止となる。鰊の豊漁が続く。
1944(昭和19)年、初山別沿岸一帯に流氷が漂着する。初浦の岡崎鉱業所が水力発電所を作る。防空壕を作る。
1946(昭和21)年、開拓移民緊急入植。大阪団体22戸。
1947(昭和22)年、富山団体9戸、樺太3戸が第三栄に入植する。村内国民学校を小学校と改称する。初山別中学校開校する。豊岬・有明分校設置する。栄炭礦開鑛する。
1948(昭和23)年、太田農場400町歩解放する。天塩沿岸鉄道促進期成会結成する。
1949(昭和24)年、開拓移民緊急入植で福島団体14戸が共成に入植する。
1951(昭和26)年、豊岬漁港が第一種漁港に指定される。村営電気工事完成する。築別〜大沢。大沢〜登駒内〜千代田。初山別村通電式挙行。
1952(昭和27)年、遠羽線着工決定する。路線測量開始する。
1953(昭和28)年、未開通区間の羽幌線築別〜天塩線遠別間着工する。
1955(昭和30)年、栄炭礦閉鑛となる。鰊がほとんど獲れなくなる。
1956(昭和31)年、ニシン凶漁、乱獲によってニシンの群は北海道から姿を消し、生態系が壊れ以後ニシン漁業消滅。
1957(昭和32)年、北海道のニシン漁は終焉を迎える。
1957(昭和32)年、11月築別〜初山別駅間延伸開業し、天塩有明・天塩栄・初山別の各駅を新設する。
1958(昭和33)年、10月初山別〜遠別間を延伸開業し、天塩線を羽幌線に編入。羽幌線が全通する。豊岬駅・天塩大沢駅・共成駅・歌越駅・天塩金浦駅を新設する。
1961(昭和36)年、富士見台シャンツエ竣工する。村営電気を北電に移管する。
1965(昭和40)年、字初浦を初山別と字名改正する。
1966(昭和41)年、初山別役場庁舎建設着工する。初山別村郷土民芸保存会設立する。
1967(昭和42)年、初山別村庁舎新築落成する。
1968(昭和43)年、初山別遺跡発掘する。
1970(昭和45)年、12月羽幌炭礦鉄道線廃止。
1972(昭和47)年、3月栄小学校閉校となる。5月簡易水道完成式挙行。6月茂築別川の有明ダムが竣工する。
1973(昭和48)年、2月初山別高等学校閉校となる。4月6町村による「北留萌消防組合」設立される。
1974(昭和49)年、2月有明地区の簡易水道給水開始。9月漁協が村内全戸に帆立の無料配布を実施する。12月豊岬観光会館を増改築し、みさき温泉会館とする。11月初山別中学校新校舎落成。
1977(昭和52)年、8月第一回しょさんべつ岬まつり開催する。
1981(昭和56)年、7月金比羅神社に建立された大鳥居に入魂式を行う。
1982(昭和57)年、4月郷土資料館がオープンする。
1985(昭和60)年、1月村観光物産館「ともしび」オープン。3月第一回しょさんべつ雪まつり開催する。9月人工芝のゲートボール場オープン。
1987(昭和62)年、3月羽幌線廃止となり、沿岸バスに転換される。春鰊豊漁。
1988(昭和63)年、4月有明ダムの湖が「ひがしやま湖」に決定する。9月第一回ひがしやま湖と水に親しむつどい開催する。9月名古屋大学助教授の小澤智住氏らがセタキナイ川上流にて1200万年前のセミクジラ科の化石を発見する。12月初山別村スキー場オープンする。
1989(昭和64・平成元)年、7月みさき台公園に売店オープン。65cmの反射天体望遠鏡を備えた「しょさんべつ天文台」オープンする。
1990(平成2)年、5月みさき台公園にゴーカート場オープンする。7月バンガローオープン。10月63年に発見された化石が「初山別海牛」と命名される。
1998(平成10)年、5月みさき台公園にパークゴルフ場オープンする。11月村役場の改修工事完了する。米作をうるち米からもち米に転換する。
1999(平成11)年、10月開基100年・村制施行90年記念式典挙行。
2001(平成13)年、12月しょさんべつ温泉「岬の湯」オープンする。
2003(平成15)年、3月有明中学校閉校となる。
2007(平成19)年、6月道の駅「ロマン街道しょさんべつ」オープンする。
2009(平成21)年、3月豊岬中学校閉校となる。11月村制施行100周年記念式典挙行。
2010(平成22)年、3月有明小学校閉校する。
2011(平成23)年、12月初山別小学校新校舎新築落成。
初山別村史・新初山別村史参考
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