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羽幌彰徳碑

住所 苫前郡羽幌町南大通6丁目1番地(羽幌神社境内)

羽幌町観光協会

苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。
羽幌の由来は、アイヌ語の「ハホロペツ」(流出広大の川)または「ハボロベツ」(広大な川の流域)から。
南町の由来は、羽幌の南部に位置するから。
国道232号線沿いにあり、道道747号上羽幌羽幌停車場線道道547号羽幌港線の交差点から苫前方向に約250mほどの交差点を右折し左手。

羽幌町は、北海道北部の西海岸にある町で、かつては、道内有数の炭鉱の街でもあった。
暑寒別天売焼尻国定公園の一部である天売島・焼尻島も羽幌町に属しており、多くの観光客が訪れ、サンセットビーチには海水浴客が多く、甘えびの水揚げが多く、夕日が綺麗な街としても知られている。
羽幌に人が定住するようになったのは、1885(明治18)年工藤浅吉が羽幌川渡船場の渡守として住んだのが始まりとされており、それ以前は漁の為来たが、漁期が終わると帰り定住するものは居なかったという。
現在の市街地付近は未開の原生林が広がっており、砂浜沿いに旅行する人が度々訪れるほど、海が荒れれば岸に打ち上げられた魚を食べるため、熊・狸・狐がよく現れたという。
1886(明治19)年には青森県人、立崎熊次郎・川口政吉・紫谷善兵衛らがニシン漁を始めている。
1887(明治20)年には石川県人、斉藤知一・中西文三郎・黒田某らが捕鯨漁を始め、羽幌は一躍漁業で賑わうことになるのである。
1892(明治25)年には越年するものが120戸にもなったそうだ。人口も増加し、商店・学校や説教所などが開業するようになり、1894(明治27)年2月苫前村から羽幌村が分離、行政区域として羽幌村ができ、羽幌官林中の一部解除され、貸付地区に編入されるが、戸長役場は苫前にあった。
同年4月には羽幌市街地の区画が発表され、1896(明治29)年からは、福井県・富山県・熊本県などの地方から団体約400戸が入植し、原野の開拓が始まったのである。現在の港町1丁目あたりから市街化が始まったと言われている。
そして開拓が進むと、人口も増加し、1897(明治30)年7月羽幌村に戸長役場が設置され、諸橋源太郎が初代戸長になり羽幌の行政がスタートする。
ここ羽幌神社境内には、彰徳碑があり名誉町民の胸像などがあり、羽幌町の発展に尽力した人たち(「蒔田余吉翁」「江野力翁」「清水泰吉翁」の像)の碑がここにあるのであるがその詳細は分からなかった。(コロナが収束したら訪問して文献を見てくる予定です)
羽幌神社は、1886(明治19)年わずか漁民十数名が漁業を営んでいた頃、この漁場内に一小社を建て稲荷大明神を祀っていた。
1897(明治30)年苫前村より分離して羽幌に戸長役場が設置されると神社の確立を要望する声が高まった。
1900(明治33)年現在地(南大通6丁目)に移転し、1901(明治34)年羽幌神社と社号を公称する。
戦後社格廃止、1947(昭和22)年2月2日宗教法人羽幌神社となる。
御祭神  豊御食津能大神(トヨミケツノオオカミ)五穀豊穰、大漁満足、商売繁盛の神様(お稲荷様)です。


南町は、1958(昭和33)年5月羽幌町の条・町・字名を改正し現在に至る。元は羽幌町の一部で羽幌原野基線・羽幌原野1線・羽幌。1879(明治12)年7月留萠に留萠、増毛、苫前、天塩、中川、上川の郡役所を置く。羽幌は、古くから今の羽幌川の河口付近の地名で、「ハホロ」「はほろ」と記されることが多かった。漢字の「羽幌」としたのは1879(明治12)年のこと。隣接する幸町・栄町地区は当時中の滝・上の滝と呼ばれ、明治20年代から鰊の出稼ぎ・移住したものが多く集落を形成した。南町と栄町東部は当時出雲と呼ばれていた。1881(明治14)年には羽幌川に田村清二郎が渡船守をする。1885(明治18)年工藤浅吉が羽幌川の渡船守として移住する。1894(明治27)年苫前村から羽幌村が分離(苫前の北部ピラエトコオマナイ川(現・羽幌と苫前の境界)からオタンクシュペツ川(現・歌越川、遠別町・初山別村の境界)までを割いた)、行政区域として「羽幌村」が設置される。4月羽幌市街地区画告示。北海道庁が古丹別・羽幌・築別・茂築別・朱参別(初山別)原野の殖民地調査を行う。羽幌市街に仮祠設ける。羽幌市街予定地に字(条丁)を設ける。川北地区は北浜通・北一条〜北六条にそれぞれ一丁目〜四丁目とした。川南地区は南浜通・南一条〜南六条で一丁目〜六丁目が置かれた。この羽幌市街地には、役場、村の官公署、商工業等が集中し村の中心地として発展した。1896(明治29)年羽幌神社創建する。1897(明治30)年7月羽幌村戸長役場が設置される。(苫前村戸長役場から独立)、増毛支庁の管轄となる。この頃南町と栄町東部は当時出雲と呼ばれ農業集落(北海道植民地撰定第二報文には「概シテ草木繁茂、地味良好ニシテ農耕地トナスニ足ル」とある)が形成された。1898(明治31)年12月には南地区付近に104区画の貸付が告示される。1899(明治32)年から移住と開拓が始まる。石見国邑智郡川戸村(現・島根県江津市桜江町川戸付近)から18戸入植する。その後2戸が入植。島根県人以外から十数戸の入植があるが詳細は分からない。1906(明治39)年戸数は上の滝・中の滝は52戸。出雲は58戸。1909(明治42)年3月羽幌村に一級町村制施行。
 1917(大正6)年9月羽幌神社社殿造営する。1920(大正9)年の戸数は上・中の滝68戸、452人。出雲は26戸、166人。1921(大正10)年7月町制施行する。
 1929(昭和4)年競馬場を開設する。1932(昭和7)年9月羽幌線古丹別〜羽幌間を延伸開業し、上平・苫前・羽幌の各駅を新設する。この際地内東側を線路が通る。1933(昭和8)年の戸数は中の滝73戸、508人。出雲は27戸、182人。1939(昭和14)年羽幌川の改修工事着工(昭和18年竣工)する。1941(昭和16)年12月国有鉄道羽幌線の羽幌〜築別間延伸開業し、築別駅を新設する。1946(昭和21)年戦後開拓者の入植が始まる。1948(昭和23)年羽幌簡易裁判所設置。1950(昭和25)年羽幌抗航校舎完成する。1955(昭和30)年の戸数は上・中の滝は85戸、576人。出雲は37戸、265人。その後鰊の減少で戸数は減少する。1958(昭和33)年国鉄羽幌線全線開通。5月羽幌町の条・町・字名を改正する。1965(昭和40)年以降になると南町地区の市街化が進んでいく、それ以前は畑作地域であった。市街化が進み急速に戸数が増えて行く。戸数は80戸、315人。1970(昭和45)年12月羽幌町役場庁舎竣工し、南6条から移転する。1981(昭和56)年旧競馬場跡地に高校新校舎を建設する。1987(昭和62)年国鉄羽幌線廃止となる。沿岸バスに転換される。


紀元前5000頃縄文時代前期 海の幸に恵まれた天売・焼尻島に人が住み始める。(土器や石器が出土している)
900-1200頃 縄文文化(最後の土器文化)がこの島に及ぶ。(擦文文化
1596(慶長元)〜1614(慶長19)年、この頃テシホ場所設置される。
1650年代、明暦年間に羽保路の金を掘ると記述がある。
1667(寛文7)年、「松前蝦夷図」に初めて「テウリエゾ」の名が現れる。
1689(元禄2)年、松前藩士蛎崎七之丞が藩命で西蝦夷地である留萠、天塩海岸を調査する。
1690(元禄3)年、松前藩が羽幌地区に藩吏と鉱夫30人程度を派遣し、砂金を採取する。
1692(元禄5)年、羽保路の蝦夷ウムシテの虚説を口実に鉱夫60余名福山に逃げ帰るとある。
1700(元禄13)年、この年から数年間、ハホロヘニ30人ずつ金採掘に派遣される。2月松前藩は全島地図「松前郷帳」(小川養甫作成)を幕府に提出する。同地図に「とままい・はほろ・つくべつ・てふれ・・島」の地名が初めて載る。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛が宗谷場所、ルルモッペ場所を請負う(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)。
1746(延享3)年、福山の人、山田某焼尻に始めてニシン漁を営む。
1778(安永7)年、焼尻に同年8月15日付の墓碑がる。
1786(天明6)年、6代栖原角兵衛、焼尻・天売・天塩場所の漁場請負を命ぜられる。苫前に通行屋設置する。
1792(寛政4)年、ニシン漁のために出稼ぎに来ていたアイヌ人23人、和人1人がテウレ沖にて遭難。
1804(文化元)年、栖原屋の支配人(栖原彦兵衛)苫前・天売・焼尻に弁財天をまつる。(厳島神社の創始)
1807(文化4)年、西蝦夷地、幕府領となりこの頃、天売とは無人島となり、焼尻・苫前・手塩のアイヌの出稼ぎ地となる。トママイ、テシホ同一場所となる。
1808(文化5)年、樺太(サハリン)警備を終えて帰国途中の会津藩士の小原忠貫・与力山内豊忠が船中で病死する。ヤンケシリ(焼尻島)島に葬られる。
1821(文政4)年、8月松前奉行調役松田伝十郎がこの沿岸を巡視する。12月幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1846(弘化3)年、5月松浦武四郎が天塩に訪れる。
1848(嘉永元)年、米人ラノルド・マクドナルド焼尻に上陸。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。トママイ・テシホは秋田藩の支配地となる。
1856(安政3)年、テシホ・トママイ場所を分割する。テウレ・ヤンケシリはテシホ場所に属する。松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。
1857(安政4)年、初めて和人漁民の出稼ぎが許可され、秋田・津軽の漁民3人(雇漁夫39人)がニシン漁を始める。
1859(安政6)年、苫前領、天売、焼尻(天塩領)庄内藩の支配地となる。
1869(明治2)年、明治政府が開拓使を設置し、蝦夷地を北海道と改め国郡を設定する。天売・焼尻は天塩国苫前郡となる。8月天塩地方は水戸藩領となる。
1871(明治4)年、各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。焼尻にて関谷長三郎、小倉近四郎が越年し永住する。
1872(明治5)年、9月開拓使宗谷支庁が置かれ、苫前出張所を設置。
1873(明治6)年、2月開拓使宗谷支庁が留萠に移され留萠支庁となる。苫前出張所設置する。
1874(明治7)年、アメリカの地質学者ライマンにより調査が行われる。青森県人の熊木平作が、天売島に移住し楢原漁場の管理人として家族と共に初めて越冬。
1875(明治8)年、3月開拓使留萠支庁が廃され、開拓使札幌本庁の管轄下となる。出張所を置く。焼尻の厳島神社が村社となるい。
1876(明治9)年、開拓使漁場持ちを廃止する。天売の厳島神社を村社とする。
1879(明治12)年、7月留萠に留萠、増毛、苫前、天塩、中川、上川の郡役所を置く。
1880(明治13)年、焼尻島の森林伐採を厳禁とするも盗伐が後を絶たず。
1881(明治14)年、7月留萌郡役所が増毛に移り、増毛外五郡役所と改称する。10月加勢玄海が焼尻島に曹洞宗願海寺(現・苫前郡羽幌町焼尻西浦17)開設する。羽幌に蛸島宗兵衛外数名の来住者。羽幌川に渡守として田村清二郎が住む。
1882(明治15)年、開拓使廃止となる。三県設置に伴い札幌県に属し、その治下に入る。青森県人の木村宇太郎が天売に住む。一戸栄弥が焼尻村オネトマリ(西浦)で寺子屋式の教育を開始する。
1883(明治16)年、天売島にて、曹洞宗説教所(現・苫前郡羽幌町天売前浜95 海龍寺)創建され、寺子屋教育が始まる。
1884(明治17)年、天売の曹洞宗説教所にて郵便業務を開始する。定期船が焼尻港に寄港開始する。天売・焼尻両島に郵便船の定期航路(渡海線)開設する。焼尻に商店開店する。この年天売島の乱伐・盗伐に入り森林が消える。
1885(明治18)年、工藤浅吉が羽幌川渡守として移住する。日本郵船(株)の定期船が天売・焼尻に寄港開始する。
1886(明治19)年、1月三県を廃して北海道庁を設置する。石川県人の斎藤知一が羽幌に捕鯨場を設ける。焼尻にて森林火災あり島の三分の一を焼失する。
1887(明治20)年、築別川畔に会津藩士の青木宗吾が移住。青森県人の立崎熊次郎・川口政吉・紫谷善兵衛らがニシン漁を始める。
1888(明治21)年、北海道庁が築別川炭層を調査する。羽幌の捕鯨場が斎藤氏から大日本帝国水産会社に譲渡される。
1889(明治22)年、新潟県人の佐藤平作が羽幌にて商店を開店する。
1890(明治23)年、藤山要吉所有の船が天売に寄港開始する。天売にて回漕業開始する。
1892(明治25)年、羽幌にて曹洞宗説教所(現・苫前郡羽幌町南町34 東伝寺)が開設される。初山別沿岸にて砂金発見され移住者・出稼ぎ者増える。
1893(明治26)年、岩谷松平が羽幌原野川北1〜3線に小作人8戸入植させる。羽幌に回漕店開業する。羽幌村医開業する。
1894(明治27)年、苫前村から羽幌村が分離、行政区域として羽幌村が設置される。4月羽幌市街地区画告示。北海道庁が古丹別・羽幌・築別・茂築別・朱参別(初山別)原野の殖民地調査を行う。羽幌市街に仮祠設ける。
1895(明治28)年、日清戦争の勝利を記念して天売島でカラマツ1000本を植樹する。羽幌原野250区画・築別原野170区画を告示する。羽幌川に橋を架橋して渡守を廃止する。
1896(明治29)年、羽幌原野に福井・富山県から約400戸団体移住者入植、上羽幌へも数人が入植する。羽幌〜築別原野の仮道開削する。羽幌神社創建する。
1897(明治30)年、7月羽幌村戸長役場が設置される。(苫前村戸長役場から独立)、増毛支庁の管轄となる。岡田佐助が馬そりにて露頭部より約1万tを採掘する。産卵のために日本海に来たニシンを97万5千トン漁獲する。築別原野高台の殖民地区画測量する。焼尻〜本島への海底電線敷設する。
1899(明治32)年、越中団体が稲の試作を行う。11月新平・上築別に簡易教育所開設する。
1900(明治33)年、羽幌原野に官設渡船場(二ヵ所)設置。
1901(明治34)年、捕鯨漁廃止する。羽幌漁業協同組合設立。9月初山別が羽幌村から分離し、初山別村戸長役場を設置する。羽幌神社移転遷座する。羽幌原野21線・築別原野12線に官設の渡船場を設ける。焼尻〜天売間の海底電線敷設される。
1902(明治35)年、二級町村制施行、羽幌村役場と改称。天売・焼尻のニシン漁船70隻が天売港で暴風のため転覆、死者228人。築別原野5線に澱粉工場設立。天売戸長役場が焼尻村より独立する。この年から大正期まで毎年天売にて植樹を行う。
1903(明治36)年、羽幌・築別原野道路開削。天売水産組合設立。羽幌原野8線に官設渡船場設置する。天売の厳島神社が現在地に遷座する。天売に鳥海神社建立する。
1904(明治37)年、ニシン建網(定置網)50統、同刺し網7766放、漁獲高15000石(一石=生ニシン750kg)、入稼漁夫2500人。羽幌原野4線・22線に官設渡船場設置する。
1905(明治38)年、稚蚕飼育所設置する。
1906(明治39)年、4月焼尻・天売村に二級町村制施行。羽幌病院開設する。
1908(明治41)年、吉尾松二・14名の名羽線踏査隊、羽幌から名寄へ。焼尻漁業組合設立。養蚕伝習所開設。
1909(明治42)年、3月羽幌村に一級町村制施行。ニシン不漁となる。
1910(明治43)年、羽幌土功組合設立する。羽幌神社が村社となる。
1912(明治45・大正元)年、3月羽幌灌漑溝竣工する。9月羽幌村役場が移転する。築別御料にて石油井試掘するが不良だった。
1914(大正3)年、9月増毛支庁を留萌支庁に改め管下に入る。築別御料に三毛別炭坑発掘。
1915(大正4)年、定期航路(渡海線)廃止となる。
1916(大正5)年、佐藤寅吉による稲の試作が始まる。11月焼尻厳島神社現在地に遷座する。
1917(大正6)年、羽幌神社社殿新築する。ニシン凶漁。滝川五郎吉が羽幌〜留萌間の馬車・馬橇運行開始。
1918(大正7)年、羽幌電気株式会社設立する。天売に村医を置く。
1920(大正9)年、4月築別原野土功組合設立する。羽幌醸造株式会社設立する。
1921(大正10)年、1月羽幌測候所開設する。4月劇場喜楽館開設される。7月町制施行、羽幌町となる。羽幌大通り病院開業する。
1923(大正12)年、5月国鉄羽幌線着工する。洪水により羽幌市街地・川南・川北が浸水する。
1924(大正13)年、5月羽幌に電話架設される。11月斉藤酒造部設立する。
1925(大正14)年、10月羽幌公園竣工する。
1926(大正15・昭和元)年、4月滝川五郎吉が乗合自動車による羽幌〜鬼鹿間、羽幌〜天塩間の旅客運送事業開始する。11月羽幌北大通にて大火。
1931(昭和6)年、3月名寄から名羽線踏査スキー隊来町する。古賀六郎に羽幌炭鉱開発の実地調査を命じる。
1932(昭和7)年、9月国鉄羽幌線古丹別〜羽幌間を延伸開業し、上平・苫前・羽幌の各駅を新設する。
1933(昭和8)年、羽幌〜焼尻・天売を結ぶ航路開かれる。焼尻水産物検査所派出所開設。
1938(昭和13)年、3月焼尻に電話架設する。8月天売島が海鳥繁殖地が国の天然記念物として指定。 ウミガラス4万羽。
1939(昭和14)年、太陽産業株式会社の築別炭砿開発始まる。鉄道建設始まる。
1940(昭和15)年、築別炭砿開抗し、採炭始まる。羽幌炭鉱鉄道株式会社設立、羽幌炭鉱鉄道の工事着手。焼尻・天売村の改名・地番改正する。12月太陽尋常小学校開校する。
1941(昭和16)年、国鉄羽幌線羽幌〜築別間開通する。12月羽幌炭礦鉄道線開業する。
1942(昭和17)年、羽幌御料農地解放、自作農創設する。羽幌森林鉄道羽幌〜平22線間開通する。焼尻測候所設置する。焼尻に綿羊入る。
1943(昭和18)年、羽幌森林組合設立する。
1944(昭和19)年、漁業組設立。(羽幌・焼尻・天売)。羽幌町農業会設立。
1946(昭和21)年、ベントナイト(粘土鉱物モンモリロナイトを主成分)採堀するが、まもなく中止。戦後開拓者の入植が始まる。
1947(昭和22)年、4月羽幌・築別・太陽・焼尻・天売の各中学校創立する。7月羽幌二坑(上羽幌)の開発着手する。11月焼尻に電気の供給開始する。
1948(昭和23)年、8月羽幌本坑(三毛別)の開発着手、羽幌町農業協同組合設立。
1949(昭和24)年、2月羽幌本坑・二坑を合併し三毛別に羽幌砿業所設置する。8月漁業協同組合に改組。(羽幌・焼尻・天売)
1950(昭和25)年、3月築別地区に電気通る。築別炭鉱でストライキ起こる。天売発電所完成し点灯する。
1953(昭和28)年、羽幌町の人口が2万人超える。
1955(昭和30)年、4月天売村を羽幌町に編入する。
1956(昭和31)年、羽幌炭鉱の石炭年産50万t突破する。ニシン凶漁、乱獲によってニシンの群は北海道から姿を消し、生態系が壊れ以後ニシン漁業消滅。ウミガラス激減する。
1957(昭和32)年、北海道のニシン漁は終わった。11月築別〜初山別駅間延伸開業し、天塩有明・天塩栄・初山別の各駅を新設する。
1958(昭和33)年、5月羽幌町の条・町・字名を改正する。日本ベントナイト工業設立。
1959(昭和34)年、4月焼尻村を羽幌町に編入する。
1960(昭和35)年、豪雨のため羽幌鉱地区水害発生。
1961(昭和36)年、天売・焼尻に発電所完成する。チライベツ遺跡発掘調査行う。
1962(昭和37)年、名羽線起工式挙行。国鉄名羽線(曙〜三毛別間3.9km)完成。羽幌本坑に第2選炭場完成。石炭年産100万t達成する。焼尻地区めん羊事業開始。
1963(昭和38)年、鳥類研究者が天売島海鳥調査実施。ウミガラス8千羽。羽幌森林鉄道の軌道撤去する。
1964(昭和39)年、羽幌町の人口3万人突破。天売・焼尻道立自然公園指定(後の暑寒別天売焼尻国定公園)。
1965(昭和40)年、羽幌本坑に運搬立抗完成する。
1966(昭和41)年、10月羽幌ダム完成。羽幌炭砿築別西坑の開発に着手する。
1968(昭和43)年、羽幌炭鉱の年間出炭量が114万tになる。11月焼尻厳島神社全焼する。
1969(昭和44)年、6月離島電気海底ケーブル敷設する。羽幌二股ダム着工する。
1970(昭和45)年、3月両島の電気施設は北電に移管する。羽幌炭砿鉄道株式会社閉山(設立から30年で幕を閉じる)急激な人口減少。羽幌炭鉱鉄道廃止。12月羽幌町役場庁舎竣工。
1971(昭和46)年、2月太陽高等学校閉校となる。10月上羽幌小中学校廃校となる。
1972(昭和47)年、5月焼尻島の深地層地下水調査ボーリング実施。環境庁、天売島のウミガラス1117羽と報告。焼尻天売への観光客約5万人。
1974(昭和49)年、上羽幌、上流・下流部落合併する。
1977(昭和52)年、焼尻郷土館(小納邸、明治33年建築)羽幌町有形文化財指定 (12月19日)
1978(昭和53)年、7月焼尻郷土館開館する。天売深地層地下水調査する。
1979(昭和54)年、8月羽幌二股ダム完成。焼尻郷土館(小納邸)北海道有形文化財指定(11月27日)。
1981(昭和56)年、10月国鉄名羽線工事凍結。
1982(昭和57)年、4月天売島、国設鳥獣保護区に指定。5月羽幌町郷土資料館開館する。6月築別炭砿跡地に緑の村開村する。
1987(昭和62)年、3月羽幌線廃止。国鉄における最後の路線廃止であった。沿岸バスに移行。7月サンセットビーチハウス竣工する。12月羽幌バスターミナル完成する。焼尻島白浜にラナルド・マクドナルドの上陸記念トーテムポールを設置する。焼尻にある旧秋山邸を北海道開拓の村に移築する。
1989(平成元)年、5月羽幌町郷土資料館が旧上築別小学校より旧羽幌簡易裁判所跡地に移転する。6月フェリー「おろろん」就航。
1990(平成2)年、3月曙小学校閉校する。8月暑寒別天売焼尻国定公園指定。
1991(平成3)年、4月高速船「さんらいなぁ」就航。屏風岩にウミガラスのデコイ設置して、ウミガラスを呼び戻さざるを得なくなった。羽幌町が天売島に常駐の海鳥調査員を配置。
1992(平成4)年、6月リバーサイド事業の地熱開発ボーリングを開始し、7月に温泉噴出する。
1994(平成6)年、12月サンセットプラザはぼろオープンする。
1996(平成8)年、羽幌・天売・焼尻漁業協同組合が合併。
1997(平成9)年、4月羽幌に北海道海鳥センター設置。7月羽幌100年記念式典を行う。
1998(平成10)年、6月バラ園オープン。道の駅開設する。羽幌町民スキー場建設する。
2000(平成12)年、羽幌緑の村閉鎖する。
2001(平成13)年、コオナゴが不漁、コウナゴを捕食するホッケが不漁。コウナゴを捕食するウミガラス21羽。
2002(平成14)年、ウミガラス13羽で絶滅の危機。
2004(平成16)年、観察史上初、ウミガラスは繁殖数0羽になった。
2005(平成17)年、2年連続、ウミガラスは繁殖数0羽。さらにウミネコの繁殖も0羽となった。
2009(平成21)年、羽幌炭砿鉄道「SL58629号」撤去。
2011(平成23)年、羽幌が舞台の全国放送のテレビドラマ「幸福の黄色いハンカチ」のロケが市街地、焼尻島で行われる。
羽幌町史・羽幌町120周年記念誌参考

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