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羽幌本坑

住所 苫前郡羽幌町字羽幌砿

羽幌町観光協会

苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。
羽幌の由来は、アイヌ語の「ハホロペツ(流出広大の川)」または「ハボロベツ(広大な川の流域)」から。
羽幌町の市街地から、道道747号上羽幌羽幌停車場線を東に約17km行くと上羽幌抗があり、そこからさらに道道741号上遠別霧立線を曙方面に約4km進むとレールとつるはしを模った、羽幌炭鉱のマークがついた運搬立抗が見えてくる。

付近の山の中には、集合住宅や貯炭場・ホッパー・選炭工場などが朽ち果てた状態で点在している。
当時国内有数の優良炭鉱とされ、最盛期には人口約1万3000人もの人が住んでいたが、1970(昭和45)年閉山となる。
羽幌炭鉱は、築別抗・羽幌本坑・上羽幌抗の3鉱区からなり、1940(昭和15)年開業し、羽幌炭砿鉄道株式会社が経営していた。1961(昭和36)年の年間出炭量100万tを超え、1968(昭和43)年には年間出炭量が114万tにもなった。
羽幌炭鉱羽幌本坑は、3鉱区の中で中間に位置し、1947(昭和22)年戦後復興のための石炭増産が望まれる中、羽幌砿の二坑(上羽幌地区)の開発が始まり、1948(昭和23)年には本坑(羽幌砿地区)の開発に着手する。本坑・二坑を合併し、本坑(三毛別)に羽幌鉱業所を置いた。
羽幌砿地区は、蛇行する三毛別川の両岸に集落が形成され、北辰町・幸町・新幸町・睦(美)町・稲穂町・錦町・栄町・寿町・新寿町・旭町(旭丘)・桜台町があった。中心地は睦町〜稲穂町辺りとなる。役場支所、消防団、社員クラブ、砿友クラブ、百貨店などの主たる機関が集中し、旭町(旭丘)には羽幌炭礦鉄道株式会社羽幌鉱業所、旭ヶ丘小中学校、羽幌綜合建設株式会社があり、幸町には商店街が形成されていた。
1951(昭和26)年2月羽幌本坑の事業拡張で三毛別地区の児童が急増し、羽幌砿業所内に三毛別分教場を設置する。12月同地区に旭ヶ丘小学校が開校し、分教場は廃止となる。
1962(昭和37)年名羽線起工式挙行。国鉄名羽線(曙〜三毛別間3.9km)完成し、羽幌本坑に第2選炭場完成する。
本坑の原炭と、索道で運ばれてきた上羽幌坑の原炭を、この施設で選炭しホッパーへと送っていた。
1965(昭和40)年1月北辰中学校開校となる。羽幌本坑に運搬立抗完成する。
国鉄の未成線である名羽線を利用してここまで石炭列車が乗り入れており、フル稼働すると1時間に炭車80両、約1000tの石炭を楊炭できたという。このころ、石炭年産100万t超えているのである。
その後、石油へのエネルギー転換に伴う特別閉山措置法を受け、羽幌砿は経営の合理化を進め、機械化を行うことで経営を続け、1965(昭和40)年には、築別・羽幌両砿業所を統合し、羽幌砿業所として、旧砿業所を築別抗・羽幌抗・上羽幌抗と改める。しかし1969(昭和44)年大断層が見つかり築別東坑を閉鎖。これにより羽幌抗と上羽幌抗の二坑体制にするも坑内条件の悪化や、労働者の出稼ぎ率の低下などもあり経営はひっ迫していった。1970(昭和45)年11月に閉山した。

撮影日は2012(平成24)年7月27日、草が生い茂り奥まで入るのは断念。
立坑の内部には階段があり屋上まで上れるという、立坑口は閉塞されている。
ホッパー裏手に残るクリーム色の大きな建物が、羽幌本坑の選炭工場の跡で機械を売り払う際に壁に穴を開けて持ち出したため穴があちこちに開いているそうだ。
現在は、羽幌観光協会が、炭鉱遺構を観光資源として見直し、炭鉱遺構を巡るツアーを催したり沿岸ハイヤーでも案内してくれるそうだ。


羽幌本坑坑口、撮影日は2012(平成24)年11月11日。7月に行った時は見つけられなかったが草も枯れやっと見つけられた。


羽幌町立北辰中学校
羽幌町立旭ヶ丘中学校と曙中学校と合併し、両中学校は1964(昭和39)年9月30日閉校し、1964(昭和39)年10月羽幌町立北辰中学校としてスタートする。
しかし、1970(昭和45)年11月の羽幌炭鉱閉山により、生徒数は激減し、閉山直前272名いた生徒も、翌年には34名までに減少。
羽幌本鉱の三毛別からは住民皆無となり、通学する生徒がいなくなったため、曙地区にある羽幌太陽高等学校校舎跡に校舎を移転している。
その後、1975(昭和50)年3月31日、羽幌中学校に統合し廃校になる。
閉校後は、一時、合鴨の飼育のために使われたが今はまるでゴーストタウンのような雰囲気をもつ校舎となっている。


築別炭砿・羽幌砿・上羽幌地区は、築別川、羽幌川の上流域にあり、羽幌町の東部を占める。北が字築別炭砿、南が字上羽幌、中間に字羽幌砿、この地区は明治期以来御料地で築別炭砿と羽幌砿地区を築別御料、上羽幌地区を羽幌御料と呼んだ。1939(昭和14)年に太陽産業株式会社の築別炭砿開発始まると築別炭砿・羽幌炭砿・御料と呼ぶようになった。現在の字名になったのは1958(昭和33)年5月。
 1894(明治27)年苫前村から羽幌村が分離、行政区域として羽幌村が設置される。1896(明治29)年に羽幌・築別原野の貸付が始まる。1897(明治30)年羽幌村戸長役場が設置される。(苫前村戸長役場から独立)1902(明治35)年二級町村制施行、羽幌村役場と改称。当時は築別御料と呼ばれていた。この頃御料の貸下げが始まると、開拓農家が入植し、農業集落が形成されていく。1909(明治42)年羽幌村に一級町村制施行。
 奥地の新区画の測量は1913(大正2)年である。1914(大正3)年築別御料に三毛別炭坑発掘。この頃20数戸が入植した。この地区の子供たちは曙の築別御料尋常小学校に通った。1917(大正6)年には冬季特別教授所を開設する。1920(大正9)年には19戸(曙と合せると112戸、646人)となる。1921(大正10)年町制施行、羽幌町となる。
 1933(昭和8)年には77戸、538人。農村不況や冷水害などで凶作が続いたこともあり人口は減少した。1936(昭和11)年築別川本流奥地にて伐木・造材事業が始まる。1939(昭和14)年太陽産業株式会社の築別炭砿開発始まる。羽幌炭砿鉄道の築別〜曙〜築別炭鉱が着工される。1940(昭和15)年築別炭砿開抗し採炭始まる。著しく発展していくのは羽幌炭鉱鉄道株式会社設立、羽幌炭鉱鉄道の工事着手されてからである。1941(昭和16)年羽幌炭砿鉄道開通する。国鉄羽幌線の羽幌〜築別間開通する。駅周辺に小市街地が形成される。12月国有鉄道羽幌線羽幌〜築別間延伸開業する。12月羽幌炭礦鉄道線開業する。1957(昭和32)年11月築別〜初山別駅間延伸開業し、天塩有明・天塩栄・初山別の各駅を新設する。1958(昭和33)年5月羽幌町の字・条・町名の改正する。10月初山別〜遠別間を延伸開業し、天塩線を羽幌線に編入。羽幌線が全通する。豊岬駅・天塩大沢駅・共成駅・歌越駅・天塩金浦駅を新設する。1962(昭和37)年4月名羽線の曙側が、鉄道建設公団の重点路線として着工され、曙〜三毛別間が開業。羽幌炭砿鉄道が借り入れる。1965(昭和40)年の人口は2742戸、1万2456人。しかし1970(昭和45)年羽幌炭鉱鉄道株式会社閉山(設立から30年で幕を閉じる)急激な人口減少し、集落の崩壊。上羽幌地区以外はほとんど無人地帯となる。12月羽幌炭礦鉄道線廃止。この頃、名羽線の全長3225mの苫竜トンネルを含む路盤の80%以上が完成していたが廃止。1972(昭和47)年27戸、99人。農家が残るだけとなり炭鉱集落は壊滅となる。1987(昭和62)年3月羽幌線廃止となり、沿岸バスに転換される。


紀元前5000頃縄文時代前期 海の幸に恵まれた天売・焼尻島に人が住み始める。(土器や石器が出土している)
900-1200頃 縄文文化(最後の土器文化)がこの島に及ぶ。(擦文文化
1596(慶長元)〜1614(慶長19)年、この頃テシホ場所設置される。
1650年代、明暦年間に羽保路の金を掘ると記述がある。
1667(寛文7)年、「松前蝦夷図」に初めて「テウリエゾ」の名が現れる。
1689(元禄2)年、松前藩士蛎崎七之丞が藩命で西蝦夷地である留萠、天塩海岸を調査する。
1690(元禄3)年、松前藩が羽幌地区に藩吏と鉱夫30人程度を派遣し、砂金を採取する。
1692(元禄5)年、羽保路の蝦夷ウムシテの虚説を口実に鉱夫60余名福山に逃げ帰るとある。
1700(元禄13)年、この年から数年間、ハホロヘニ30人ずつ金採掘に派遣される。2月松前藩は全島地図「松前郷帳」(小川養甫作成)を幕府に提出する。同地図に「とままい・はほろ・つくべつ・てふれ・・島」の地名が初めて載る。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛が宗谷場所、ルルモッペ場所を請負う(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)。
1746(延享3)年、福山の人、山田某焼尻に始めてニシン漁を営む。
1778(安永7)年、焼尻に同年8月15日付の墓碑がる。
1786(天明6)年、6代栖原角兵衛、焼尻・天売・天塩場所の漁場請負を命ぜられる。苫前に通行屋設置する。
1792(寛政4)年、ニシン漁のために出稼ぎに来ていたアイヌ人23人、和人1人がテウレ沖にて遭難。
1804(文化元)年、栖原屋の支配人(栖原彦兵衛)苫前・天売・焼尻に弁財天をまつる。(厳島神社の創始)
1807(文化4)年、西蝦夷地、幕府領となりこの頃、天売とは無人島となり、焼尻・苫前・手塩のアイヌの出稼ぎ地となる。トママイ、テシホ同一場所となる。
1808(文化5)年、樺太(サハリン)警備を終えて帰国途中の会津藩士の小原忠貫・与力山内豊忠が船中で病死する。ヤンケシリ(焼尻島)島に葬られる。
1821(文政4)年、8月松前奉行調役松田伝十郎がこの沿岸を巡視する。12月幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1846(弘化3)年、5月松浦武四郎が天塩に訪れる。
1848(嘉永元)年、米人ラノルド・マクドナルド焼尻に上陸。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。トママイ・テシホは秋田藩の支配地となる。
1856(安政3)年、テシホ・トママイ場所を分割する。テウレ・ヤンケシリはテシホ場所に属する。松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。
1857(安政4)年、初めて和人漁民の出稼ぎが許可され、秋田・津軽の漁民3人(雇漁夫39人)がニシン漁を始める。
1859(安政6)年、苫前領、天売、焼尻(天塩領)庄内藩の支配地となる。
1869(明治2)年、明治政府が開拓使を設置し、蝦夷地を北海道と改め国郡を設定する。天売・焼尻は天塩国苫前郡となる。8月天塩地方は水戸藩領となる。
1871(明治4)年、各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。焼尻にて関谷長三郎、小倉近四郎が越年し永住する。
1872(明治5)年、9月開拓使宗谷支庁が置かれ、苫前出張所を設置。
1873(明治6)年、2月開拓使宗谷支庁が留萠に移され留萠支庁となる。苫前出張所設置する。
1874(明治7)年、アメリカの地質学者ライマンにより調査が行われる。青森県人の熊木平作が、天売島に移住し楢原漁場の管理人として家族と共に初めて越冬。
1875(明治8)年、3月開拓使留萠支庁が廃され、開拓使札幌本庁の管轄下となる。出張所を置く。焼尻の厳島神社が村社となるい。
1876(明治9)年、開拓使漁場持ちを廃止する。天売の厳島神社を村社とする。
1879(明治12)年、7月留萠に留萠、増毛、苫前、天塩、中川、上川の郡役所を置く。
1880(明治13)年、焼尻島の森林伐採を厳禁とするも盗伐が後を絶たず。
1881(明治14)年、7月留萌郡役所が増毛に移り、増毛外五郡役所と改称する。10月加勢玄海が焼尻島に曹洞宗願海寺(現・苫前郡羽幌町焼尻西浦17)開設する。羽幌に蛸島宗兵衛外数名の来住者。羽幌川に渡守として田村清二郎が住む。
1882(明治15)年、開拓使廃止となる。三県設置に伴い札幌県に属し、その治下に入る。青森県人の木村宇太郎が天売に住む。一戸栄弥が焼尻村オネトマリ(西浦)で寺子屋式の教育を開始する。
1883(明治16)年、天売島にて、曹洞宗説教所(現・苫前郡羽幌町天売前浜95 海龍寺)創建され、寺子屋教育が始まる。
1884(明治17)年、天売の曹洞宗説教所にて郵便業務を開始する。定期船が焼尻港に寄港開始する。天売・焼尻両島に郵便船の定期航路(渡海線)開設する。焼尻に商店開店する。この年天売島の乱伐・盗伐に入り森林が消える。
1885(明治18)年、工藤浅吉が羽幌川渡守として移住する。日本郵船(株)の定期船が天売・焼尻に寄港開始する。
1886(明治19)年、1月三県を廃して北海道庁を設置する。石川県人の斎藤知一が羽幌に捕鯨場を設ける。焼尻にて森林火災あり島の三分の一を焼失する。
1887(明治20)年、築別川畔に会津藩士の青木宗吾が移住。青森県人の立崎熊次郎・川口政吉・紫谷善兵衛らがニシン漁を始める。
1888(明治21)年、北海道庁が築別川炭層を調査する。羽幌の捕鯨場が斎藤氏から大日本帝国水産会社に譲渡される。
1889(明治22)年、新潟県人の佐藤平作が羽幌にて商店を開店する。
1890(明治23)年、藤山要吉所有の船が天売に寄港開始する。天売にて回漕業開始する。
1892(明治25)年、羽幌にて曹洞宗説教所(現・苫前郡羽幌町南町34 東伝寺)が開設される。初山別沿岸にて砂金発見され移住者・出稼ぎ者増える。
1893(明治26)年、岩谷松平が羽幌原野川北1〜3線に小作人8戸入植させる。羽幌に回漕店開業する。羽幌村医開業する。
1894(明治27)年、苫前村から羽幌村が分離、行政区域として羽幌村が設置される。4月羽幌市街地区画告示。北海道庁が古丹別・羽幌・築別・茂築別・朱参別(初山別)原野の殖民地調査を行う。羽幌市街に仮祠設ける。
1895(明治28)年、日清戦争の勝利を記念して天売島でカラマツ1000本を植樹する。羽幌原野250区画・築別原野170区画を告示する。羽幌川に橋を架橋して渡守を廃止する。
1896(明治29)年、羽幌原野に福井・富山県から約400戸団体移住者入植、上羽幌へも数人が入植する。羽幌〜築別原野の仮道開削する。羽幌神社創建する。
1897(明治30)年、7月羽幌村戸長役場が設置される。(苫前村戸長役場から独立)、増毛支庁の管轄となる。岡田佐助が馬そりにて露頭部より約1万tを採掘する。産卵のために日本海に来たニシンを97万5千トン漁獲する。築別原野高台の殖民地区画測量する。焼尻〜本島への海底電線敷設する。
1899(明治32)年、越中団体が稲の試作を行う。11月新平・上築別に簡易教育所開設する。
1900(明治33)年、羽幌原野に官設渡船場(二ヵ所)設置。
1901(明治34)年、捕鯨漁廃止する。羽幌漁業協同組合設立。9月初山別が羽幌村から分離し、初山別村戸長役場を設置する。羽幌神社移転遷座する。羽幌原野21線・築別原野12線に官設の渡船場を設ける。焼尻〜天売間の海底電線敷設される。
1902(明治35)年、二級町村制施行、羽幌村役場と改称。天売・焼尻のニシン漁船70隻が天売港で暴風のため転覆、死者228人。築別原野5線に澱粉工場設立。天売戸長役場が焼尻村より独立する。この年から大正期まで毎年天売にて植樹を行う。
1903(明治36)年、羽幌・築別原野道路開削。天売水産組合設立。羽幌原野8線に官設渡船場設置する。天売の厳島神社が現在地に遷座する。天売に鳥海神社建立する。
1904(明治37)年、ニシン建網(定置網)50統、同刺し網7766放、漁獲高15000石(一石=生ニシン750kg)、入稼漁夫2500人。羽幌原野4線・22線に官設渡船場設置する。
1905(明治38)年、稚蚕飼育所設置する。
1906(明治39)年、4月焼尻・天売村に二級町村制施行。羽幌病院開設する。
1908(明治41)年、吉尾松二・14名の名羽線踏査隊、羽幌から名寄へ。焼尻漁業組合設立。養蚕伝習所開設。
1909(明治42)年、3月羽幌村に一級町村制施行。ニシン不漁となる。
1910(明治43)年、羽幌土功組合設立する。羽幌神社が村社となる。
1912(明治45・大正元)年、3月羽幌灌漑溝竣工する。9月羽幌村役場が移転する。築別御料にて石油井試掘するが不良だった。
1914(大正3)年、9月増毛支庁を留萌支庁に改め管下に入る。築別御料に三毛別炭坑発掘。
1915(大正4)年、定期航路(渡海線)廃止となる。
1916(大正5)年、佐藤寅吉による稲の試作が始まる。11月焼尻厳島神社現在地に遷座する。
1917(大正6)年、羽幌神社社殿新築する。ニシン凶漁。滝川五郎吉が羽幌〜留萌間の馬車・馬橇運行開始。
1918(大正7)年、羽幌電気株式会社設立する。天売に村医を置く。
1920(大正9)年、4月築別原野土功組合設立する。羽幌醸造株式会社設立する。
1921(大正10)年、1月羽幌測候所開設する。4月劇場喜楽館開設される。7月町制施行、羽幌町となる。羽幌大通り病院開業する。
1923(大正12)年、5月国鉄羽幌線着工する。洪水により羽幌市街地・川南・川北が浸水する。
1924(大正13)年、5月羽幌に電話架設される。11月斉藤酒造部設立する。
1925(大正14)年、10月羽幌公園竣工する。
1926(大正15・昭和元)年、4月滝川五郎吉が乗合自動車による羽幌〜鬼鹿間、羽幌〜天塩間の旅客運送事業開始する。11月羽幌北大通にて大火。
1931(昭和6)年、3月名寄から名羽線踏査スキー隊来町する。古賀六郎に羽幌炭鉱開発の実地調査を命じる。
1932(昭和7)年、9月国鉄羽幌線古丹別〜羽幌間を延伸開業し、上平・苫前・羽幌の各駅を新設する。
1933(昭和8)年、羽幌〜焼尻・天売を結ぶ航路開かれる。焼尻水産物検査所派出所開設。
1938(昭和13)年、3月焼尻に電話架設する。8月天売島が海鳥繁殖地が国の天然記念物として指定。 ウミガラス4万羽。
1939(昭和14)年、太陽産業株式会社の築別炭砿開発始まる。鉄道建設始まる。
1940(昭和15)年、築別炭砿開抗し、採炭始まる。羽幌炭鉱鉄道株式会社設立、羽幌炭鉱鉄道の工事着手。焼尻・天売村の改名・地番改正する。12月太陽尋常小学校開校する。
1941(昭和16)年、国鉄羽幌線羽幌〜築別間開通する。12月羽幌炭礦鉄道線開業する。
1942(昭和17)年、羽幌御料農地解放、自作農創設する。羽幌森林鉄道羽幌〜平22線間開通する。焼尻測候所設置する。焼尻に綿羊入る。
1943(昭和18)年、羽幌森林組合設立する。
1944(昭和19)年、漁業組設立。(羽幌・焼尻・天売)。羽幌町農業会設立。
1946(昭和21)年、ベントナイト(粘土鉱物モンモリロナイトを主成分)採堀するが、まもなく中止。戦後開拓者の入植が始まる。
1947(昭和22)年、4月羽幌・築別・太陽・焼尻・天売の各中学校創立する。7月羽幌二坑(上羽幌)の開発着手する。11月焼尻に電気の供給開始する。
1948(昭和23)年、8月羽幌本坑(三毛別)の開発着手、羽幌町農業協同組合設立。
1949(昭和24)年、2月羽幌本坑・二坑を合併し三毛別に羽幌砿業所設置する。8月漁業協同組合に改組。(羽幌・焼尻・天売)
1950(昭和25)年、3月築別地区に電気通る。築別炭鉱でストライキ起こる。天売発電所完成し点灯する。
1953(昭和28)年、羽幌町の人口が2万人超える。
1955(昭和30)年、4月天売村を羽幌町に編入する。
1956(昭和31)年、羽幌炭鉱の石炭年産50万t突破する。ニシン凶漁、乱獲によってニシンの群は北海道から姿を消し、生態系が壊れ以後ニシン漁業消滅。ウミガラス激減する。
1957(昭和32)年、北海道のニシン漁は終わった。11月築別〜初山別駅間延伸開業し、天塩有明・天塩栄・初山別の各駅を新設する。
1958(昭和33)年、5月羽幌町の条・町・字名を改正する。日本ベントナイト工業設立。
1959(昭和34)年、4月焼尻村を羽幌町に編入する。
1960(昭和35)年、豪雨のため羽幌鉱地区水害発生。
1961(昭和36)年、天売・焼尻に発電所完成する。チライベツ遺跡発掘調査行う。
1962(昭和37)年、名羽線起工式挙行。国鉄名羽線(曙〜三毛別間3.9km)完成。羽幌本坑に第2選炭場完成。石炭年産100万t達成する。焼尻地区めん羊事業開始。
1963(昭和38)年、鳥類研究者が天売島海鳥調査実施。ウミガラス8千羽。羽幌森林鉄道の軌道撤去する。
1964(昭和39)年、羽幌町の人口3万人突破。天売・焼尻道立自然公園指定(後の暑寒別天売焼尻国定公園)。
1965(昭和40)年、羽幌本坑に運搬立抗完成する。
1966(昭和41)年、10月羽幌ダム完成。羽幌炭砿築別西坑の開発に着手する。
1968(昭和43)年、羽幌炭鉱の年間出炭量が114万tになる。11月焼尻厳島神社全焼する。
1969(昭和44)年、6月離島電気海底ケーブル敷設する。羽幌二股ダム着工する。
1970(昭和45)年、3月両島の電気施設は北電に移管する。羽幌炭砿鉄道株式会社閉山(設立から30年で幕を閉じる)急激な人口減少。羽幌炭鉱鉄道廃止。12月羽幌町役場庁舎竣工。
1971(昭和46)年、2月太陽高等学校閉校となる。10月上羽幌小中学校廃校となる。
1972(昭和47)年、5月焼尻島の深地層地下水調査ボーリング実施。環境庁、天売島のウミガラス1117羽と報告。焼尻天売への観光客約5万人。
1974(昭和49)年、上羽幌、上流・下流部落合併する。
1977(昭和52)年、焼尻郷土館(小納邸、明治33年建築)羽幌町有形文化財指定 (12月19日)
1978(昭和53)年、7月焼尻郷土館開館する。天売深地層地下水調査する。
1979(昭和54)年、8月羽幌二股ダム完成。焼尻郷土館(小納邸)北海道有形文化財指定(11月27日)。
1981(昭和56)年、10月国鉄名羽線工事凍結。
1982(昭和57)年、4月天売島、国設鳥獣保護区に指定。5月羽幌町郷土資料館開館する。6月築別炭砿跡地に緑の村開村する。
1987(昭和62)年、3月羽幌線廃止。国鉄における最後の路線廃止であった。沿岸バスに移行。7月サンセットビーチハウス竣工する。12月羽幌バスターミナル完成する。焼尻島白浜にラナルド・マクドナルドの上陸記念トーテムポールを設置する。焼尻にある旧秋山邸を北海道開拓の村に移築する。
1989(平成元)年、5月羽幌町郷土資料館が旧上築別小学校より旧羽幌簡易裁判所跡地に移転する。6月フェリー「おろろん」就航。
1990(平成2)年、3月曙小学校閉校する。8月暑寒別天売焼尻国定公園指定。
1991(平成3)年、4月高速船「さんらいなぁ」就航。屏風岩にウミガラスのデコイ設置して、ウミガラスを呼び戻さざるを得なくなった。羽幌町が天売島に常駐の海鳥調査員を配置。
1992(平成4)年、6月リバーサイド事業の地熱開発ボーリングを開始し、7月に温泉噴出する。
1994(平成6)年、12月サンセットプラザはぼろオープンする。
1996(平成8)年、羽幌・天売・焼尻漁業協同組合が合併。
1997(平成9)年、4月羽幌に北海道海鳥センター設置。7月羽幌100年記念式典を行う。
1998(平成10)年、6月バラ園オープン。道の駅開設する。羽幌町民スキー場建設する。
2000(平成12)年、羽幌緑の村閉鎖する。
2001(平成13)年、コオナゴが不漁、コウナゴを捕食するホッケが不漁。コウナゴを捕食するウミガラス21羽。
2002(平成14)年、ウミガラス13羽で絶滅の危機。
2004(平成16)年、観察史上初、ウミガラスは繁殖数0羽になった。
2005(平成17)年、2年連続、ウミガラスは繁殖数0羽。さらにウミネコの繁殖も0羽となった。
2009(平成21)年、羽幌炭砿鉄道「SL58629号」撤去。
2011(平成23)年、羽幌が舞台の全国放送のテレビドラマ「幸福の黄色いハンカチ」のロケが市街地、焼尻島で行われる。
羽幌町史・羽幌町120周年記念誌参考

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