北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

工兵街道記念碑

住所 苫前郡羽幌町焼尻豊崎

羽幌町観光協会

苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。
羽幌の由来は、アイヌ語の「ハホロペツ」(流出広大の川)または「ハボロベツ」(広大な川の流域)から。
焼尻の由来は、アイヌ語の「エハンケ・シリ」(近い島)、あるいは「ヤンケ・シリ」(水揚げする島)。
豊崎の由来は、豊漁を願って命名したものでアイヌ語由来ではない。もとは焼尻村の一部で、オロピリカナイ・コシュンナイ・レフトロ・フンベトマリなどからなる。それ以前は「トエヘワケ」(鳥の居るところ)これは記念碑の先にある出崎のことを指すようである。
道道255号焼尻島線を西浦方向へ進むと右手。

道道255号線沿いの高台に工兵街道記念碑があり、ちょっとした休憩ポイントでもある。
この道路は、第二次大戦中、焼尻島に駐屯していた工兵隊が崖を切り崩して作ったことから、工兵街道と呼ばれこの地に記念碑が立てられた絶景ポイントである。
高台の上にあるため見晴らしがよく、天気が良ければ焼尻島と天売島を往復するフェリーの姿、利尻富士の姿も見ることができるが、訪問した際は見えませんでした。

豊崎は、1940(昭和15)年焼尻・天売村の改名・地番改正し豊崎となった。このときアイヌ語系の地名は全て消えた。元は焼尻村の一部で、それ以前は小字が多く、アイヌ語由来のものだった。オロピリカナイ・コシュンナイ・レフトロ・フンベトマリ・焼尻北基線・焼尻北1線・オンネトマリなど。
 1875(明治8)年焼尻の厳島神社が村社となる。焼尻となったのは1876(明治9)年である。それ以前は苫前の管轄下にあり、小字はなく焼尻だったようである。1880(明治13)年焼尻外1戸村長役場の管轄区域となる。12戸、234人。豊崎のあたりに漁業集落ができる。1882(明治15)年一戸栄弥が焼尻村オネトマリ(西浦)で寺子屋式の教育を開始する。1884(明治17)年定期船が焼尻港に寄港開始する。天売・焼尻両島に郵便船の定期航路(渡海線)開設する。焼尻に商店開店する。1885(明治18)年日本郵船(株)の定期船が天売・焼尻に寄港開始する。1886(明治19)年焼尻にて森林火災あり島の三分の一を焼失する。ニシン漁業者による乱伐と山火事により森林が荒廃する。白浜地区東部に明治中期からニシン漁業集落ができる。1902(明治35)年天売戸長役場が焼尻村より独立する。1906(明治39)年2級町村制施行で焼尻村役場と改称。
 1916(大正5)年11月焼尻厳島神社現在地に遷座する。
 1933(昭和8)年羽幌〜焼尻・天売を結ぶ航路開かれる。1940(昭和15)年焼尻・天売村の改名・地番改正する。1942(昭和17)年焼尻に綿羊入る。1947(昭和22)年焼尻・天売の各中学校創立する。11月焼尻に電気の供給開始する。1959(昭和34)年4月焼尻村を羽幌町に編入する。羽幌町焼尻となる。ニシンが獲れなくなると過疎化が進行していく。1961(昭和36)年天売・焼尻に発電所完成する。1962(昭和37)年焼尻地区めん羊事業開始。1964(昭和39)年天売・焼尻道立自然公園指定(後の暑寒別天売焼尻国定公園)。1968(昭和43)年11月焼尻厳島神社全焼する。1970(昭和45)年3月両島の電気施設は北電に移管する。1972(昭和47)年5月焼尻島の深地層地下水調査ボーリング実施。焼尻天売への観光客約5万人。1977(昭和52)年焼尻郷土館(小納邸、明治33年建築)羽幌町有形文化財指定 (12月19日)。1978(昭和53)年7月焼尻郷土館開館する。1979(昭和54)年焼尻郷土館(小納邸)北海道有形文化財指定(11月27日)。1987(昭和62)年焼尻島白浜にラノルド・マクドナルドの上陸記念トーテムポールを設置する。焼尻にある旧秋山邸を北海道開拓の村に移築する。
 1990(平成2)年8月暑寒別天売焼尻国定公園指定。1991(平成3)年4月高速船「さんらいなぁ」就航。2011(平成23)年羽幌が舞台の全国放送のテレビドラマ「幸福の黄色いハンカチ」のロケが市街地、焼尻島で行われる。

Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system