にしん街道標柱住所 苫前郡初山別村字豊岬初山別村 苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」(エゾエンゴサクのある所)が転訛したもの。 初山別の由来は、アイヌ語「シュサンペツ」(小さい沢のある川)、または「ソウサンベツ」(滝がそこで流れ出ている川)など諸説ある。開拓当初は、朱参別・聚参別などの漢字を当てた。1941(昭和16)年の字名改正で初浦となり、1965(昭和40)年字初浦を初山別と字名改正する。 豊岬の由来は、アイヌ語の「フウレ・ベツ」(赤い・川)、かつでは番屋が在ったところで交通の要衝であった。1941(昭和16)年の字名改正で金比羅岬を含む臨海部落にて、豊漁なことから豊岬と命名した。 初山別市街地の国道232号と道道448号千代田初山別停車場線の村役場がある交差点から天塩方向に約3.4kmの(天文台の看板有)交差点を左折し、約1.1kmほど直進した突き当りの駐車場内にある。すぐそばに木製の階段があり海岸・豊岬漁港まで下りていける。下りて左手方向に海の中に波にもまれながら建つ赤い鳥居が見える金比羅神社がある。 にしん街道は、北海道の松前町から稚内市までの日本海沿岸約700kmの道のりの事、そこには「 にしん番屋 」に象徴される数多くの遺跡や文化財が点在しているのである。 当時、北海道日本海沿岸市町村では、江戸時代から「ニシン」による繁栄という共通の文化を有し、日本海の市町村を繋ぐ道として標柱の設置が進められているのだ。 1897(明治30)年、にしん漁最盛期には、97万3000トンの史上最高を記録しているほどで、ニシン漁は北海道の漁業総生産額の7割を占めるほど盛んだった。 多くの廻船問屋や商家、土蔵が建ち並ぶなど、ニシン漁で財を成した漁師による「ニシン御殿」が建ち並んだ。 日本海沿岸市町村には、現在もこれらを象徴する歴史的建造物や郷土芸能など、有・無形の文化財が数多く残され、一部の地域では資料館として開放している。 1906(明治39)年、このころからニシン漁不漁期に入り豊漁の年と凶漁の年があり、1955(昭和30)年以降、日本国内での水揚量は、100tにまで激減してロシアやカナダからの輸入品が大半を占めるようになった。 激減の原因として挙げられるのが、乱獲、森林破壊など諸説があるが、日本の場合は乱獲が主要の原因だと見られる。 にしんルネサンスでは、往時の繁栄時代のにしん文化を蘇らせネットワークで結び、新たな観光ルートの確立など、日本海沿岸市町村を通るルートを『にしん街道』と命名し、各市町村に標柱を設置することになった。 松前町から稚内市までの総延長約700kmを結ぶ街道は、国内最大の長さを誇り、2004(平成16)年、松前町から始まった 「 にしん街道標柱設置事業 」 が、江差・小樽・留萌などを経て、2012(平成24)年11月に初山別村の観光スポットである道の駅 ☆ロマン街道しょさんべつを含む「みさき台公園」敷地内に設置された。 案内板 ここ初山別村は、明治中期から「にしん漁」で栄えた漁村 の一つです。 大正末期から昭和中期にかけてほぼ毎年、一万石を越える にしんが漁獲されており、当時のにしん場では、作業員の脚 を埋めつくすほどにしんが漁獲されていたそうです。 「にしん漁」が始まる雪解けの季節になると、多くの「ヤ ン衆」と呼ばれる漁夫が数百人単位で東北地方及び道南地方 から入来し、一気に地域全体が活気づいたと伝えられていま す。 眼前にひろがる沿岸には、産卵のため沿岸に寄ってきたに しんの白子により乳白色に海面が変色したと言い伝えられて おります。 「にしん漁」は当時、初山別村の主要産業であり、地域経 済や地域住民の生活に大きな潤いを与えました。地域の大人 から子どもまで全員が毎年「にしん漁」が始まるのを心待ち にしていた様子や地域のにぎやかな様子が初山別村史に綴ら れています。 このようなにしん文化の歴史と伝統の数々を追想し、この 文化を後世に引き継ぐとともに、松前を始点として「にしん 漁」の歴史・文化で結ばれる日本海沿岸市町村の一拠点の証 として標柱を設置しました。 設置月日 平成二十四年十一月吉日 設置者 初山別村 |