天売島フェリーターミナル住所 苫前郡羽幌町天売弁天羽幌町観光協会 苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。 羽幌の由来は、アイヌ語の「ハホロペツ」(流出広大の川)または「ハボロベツ」(広大な川の流域)から。 天売の由来は、アイヌ語の「テウレ」(魚の背腸)、もしくは「チュウレ」(足)に由来すると言われている。 弁天の由来は、地内に弁天社があったことに由来する。この弁天社は1804(文化元)年栖原屋の支配人(栖原彦兵衛)が苫前・天売・焼尻に弁財天を祀ったことに始まる。1876(明治9)年厳島神社に改称し、1903(明治36)年に現在地に移転した。1940(昭和15)年天売村の改名・地番改正し、弁天となる。1955(昭和30)年羽幌町と合併し、大字天売弁天と改称。 焼尻島・天売島は、暑寒別天売焼尻国定公園に指定されていて、天売島は留萌振興局管内の苫前郡羽幌町にある羽幌港の西28kmの日本海に浮かぶ島で、焼尻島とともに羽幌町に属している。 面積は5.50km2、周囲約12km。最も高い所で標高185mとなっていて高低差があるので観光の際には電動アシスト自転車をレンタルするのがいいとおもう。島には背の高い樹木はほとんどなく、丘陵一帯が低潅木と笹におおわれて全体になだらかな島。天売島には羽幌沿海フェリーを利用、羽幌から焼尻島経由で約1時間20分の行程。 天売島の北西海岸は断崖が続き、ウミガラス(オロロン鳥)やウトウ、ウミウ、オオセグロカモメなどの海鳥の繁殖が確認されており、1938(昭和13)年8月に「天売島海鳥繁殖地」として国の天然記念物に指定された。 1982(昭和57)年3月には、国指定天売島鳥獣保護区(面積546ha・うち特別保護地区117ha)に指定されている。 天売島は、明治時代以降に入植者(ニシン漁従事者)による乱伐、山火事の発生により島内の森林の大半を喪失する状態にあった。生活に必要な水資源に事欠くような状況となったため、第二次世界大戦後には治山事業により植林を開始して、厳しい自然環境の下、育成は困難を極めたが1990(平成2)年8月1日周辺の暑寒別山系や焼尻島等とともに暑寒別天売焼尻国定公園に指定された。 おろろんレンタル TEL 01648-3-5125(兼 自宅) フェリーターミナルのすぐ裏手にあるレンタルショップ。 島を周遊するための自転車やバイクが揃っているだけでなく、釣り道具まであるというからうれしい。 道道548号天売島線は、1周10キロ程度で道路は舗装されているので、島内はレンタサイクルやレンタバイクで簡単に周遊できる。徒歩でめぐってもおよそ3時間ほどだという。 私は、100CCのレンタバイクを借りました。1時間2500円、30分毎時間超過で、料金プラス500円。 レンタル 自転車 ゆったりコース(4時間まで)1000円。超過料金1時間+200円 電動自転車 2時間1600円。4時間2200円。超過料金30分+200円 バイク50cc ゆったりコース(2時間)2000円。超過料金30分+500円・燃料付き バイク50cc お急ぎコース(1時間)1500円。超過料金30分+500円・燃料付き バイク100cc ゆったりコース(2時間)3000円 超過料金30+分500円・燃料付き バイク100cc お急ぎコース(1時間)2500円 超過料金30分+500円・燃料付き レンタカー(軽自動車) 1時間まで3500円 超過料金30分+1000円・燃料付き そして、レンタルショップの2階には天売郷土資料館・「天売ふる里館 森脇洋三コレクション」がある。 入館料 大人300円・小人200円・レンタルを利用された方は無料で入館できる。 いまは見られなくなった骨董品が所狭しと並んでいる。島の古き良き時代の空気が伝わってくるようで、実際に使われていた道具や生活用品を収集しているうちに、展示できる数になったという。 かつての生活を知る上で今や貴重な品々があり、乱雑に置いてあるがまたそれがいい。 毎年7月には、天売ウニまつりが開催され、獲れたてウニを激安価格で販売している。 島近海のウニや海産物がメインのイベントで、新鮮な海の幸をバーベキューして楽しめる。土曜の夜には花火大会も開催するそうだ。 ターミナル裏には他にも、お土産屋などが数店舗並んでいる。 弁天は、地内に弁天社があったことに由来する。この弁天社は1804(文化元)年栖原屋の支配人(栖原彦兵衛)が苫前・天売・焼尻に弁財天を祀ったことに始まる。元は天売村の一部で、ワッカクシナイ・ベンザイトマリ(弁財泊)・ウエンナイ・クダリカゲ・天売基線・天売1線・シマコタンからなる。地内北部は江戸期から船入澗として利用され、この辺りをベンザイトマリと称してきた。当時天売島と本島を結ぶ航路は小樽だった。1876(明治9)年天売村発足。弁財天を厳島神社に改称。1880(明治13)年天売の世帯数は12戸、234人。1883(明治16)年曹洞宗説教所(現・海龍寺)創建され、寺子屋教育が始まる。1885(明治18)年日本郵船(株)の定期船(渡海船)汽船栄嘉丸が天売・焼尻に寄港開始する。1902(明治35)年9月天売戸長役場が焼尻より独立する。世帯数は313戸、1422人。ウエンナイに戸長役場を置く。1891(明治24)年世帯数125戸、444人。1903(明治36)年神社を現在地に移転した。明治期はニシン漁で賑わった。特に秋田県の出身者が多く、次いで青森・山形・富山などから3000人近くの出稼ぎが来島した。1906(明治39)年2級町村制施行で天売村役場と改称。世帯数は415戸・1876人。大字は編成せず。この頃からニシン不漁となる。 1913(大正2)年からニシンの豊漁が続く。1921(大正10)年からニシン不漁となる。ニシン不漁の対策として沖合漁業振興のため漁港修築運動が高まる。1925(大正14)年武蔵堆が発見され、天売島の漁場が見直された。 ゴメ岬と太郎兵衛崎(前浜漁港までの間にある崎)には暗礁がありその間にあるわずかな湾入を利用して1932(昭和7)年天売港修築開始。1933(昭和8)年船入澗完成し、漁港として利用する。1933(昭和8)年苫前・焼尻・天売を結ぶ航路開かれる。江野力が札幌逓信局と契約して羽幌〜焼尻・天売を結ぶ郵便航路開かれる。1934(昭和9)年天売漁港竣工。1940(昭和15)年天売村の改名・地番改正する。相影・富磯・和浦・前浜・弁天・豊畑・千鳥ヶ浦を編成する。1950(昭和25)年発電所設置し天売島は電化となる。苫前両島定期船(両島運輸)が羽幌にも寄港するようになる。戦後ニシンが豊漁となる。1954(昭和29)年天売灯台新設。ニシン凶漁となる。1955(昭和30)年羽幌町と合併し、大字天売弁天と改称。羽幌町役場天売支所を設置。ニシンが獲れなくなり対策として天売港の整備、前浜漁港の築設を推進する。養殖事業を振興する。世帯数は341戸、2154人。1965(昭和40)年世帯数は312戸、1512人。1966(昭和41)年島内一周道路完成する。1967(昭和42)年南北の防波堤完成する。物揚場完成する。1975(昭和50)年世帯数は268戸、892人。 紀元前5000頃縄文時代前期 海の幸に恵まれた天売島に人が住み始める。(土器や石器が出土している) 900-1200頃 縄文文化(最後の土器文化(擦文文化))がこの島に及ぶ。 1667(寛文7)年、「松前蝦夷図」に初めて「テウリエゾ」の名が現れる。 1670(寛文10)年、津軽藩の蝦夷地調査書にともまい(苫前)・てうれ(天売)・らいけ(焼尻)・はほろ(羽幌)・てしほ(天塩)の地名がある。 1700(元禄13)年、この年から数年間、ハホロヘニ30人ずつ金採掘に派遣される。2月松前藩は全島地図「松前郷帳」(小川養甫作成)を幕府に提出する。同地図に「とままい・はほろ・つくべつ・てふれ・・島」の地名が載る。 1706(宝永3)年、村山伝兵衛が宗谷場所、ルルモッペ場所を請負う(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)。 1782(天明2)年、松前広時の支配地となる。 1786(天明6)年、6代栖原角兵衛、焼尻・天売・天塩場所の漁場請負を命ぜられる。島で漁場経営とアイヌ民族との交易を請け負う。このときの島民、アイヌ人12人。主な産物はニシン、アワビ、ナマコ、タラ、昆布など。 1792(寛政4)年、ニシン漁のために出稼ぎに来ていたアイヌ人23人が遭難。 1804(文化元)年、栖原屋の支配人(栖原彦兵衛)苫前・天売・焼尻に弁財天(厳島神社の創始)をまつる。 1807(文化4)年、西蝦夷地、幕府領となりこの頃、天売とは無人島となり、焼尻・苫前・手塩のアイヌの出稼ぎ地となる。 1815(文化12)年、この頃間宮林蔵がこの地方を測量する。 1821(文政4)年、8月松前奉行調役松田伝十郎がこの地を巡視する。12月幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。 1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。 1846(弘化3)年、5月松浦武四郎がこの沿岸を踏査する。 1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。秋田藩の警備地となる。 1856(安政3)年、テシホ・トママイ場所を分割する。テウレ・ヤンケシリはテシホ場所に属する。5月松浦武四郎がこの沿岸を踏査する。トママイ・テシホ場所への出稼ぎが認められ、トママイ・ハホロ・テウレ・ヤンケシリに本土・東北地方などから出稼ぎ民が進出する。 1857(安政4)年、初めて和人漁民の出稼ぎが許可され、秋田・津軽の漁民3人(雇漁夫39人)がニシン漁を始める。 1859(安政6)年、苫前領、天売、焼尻(天塩領)庄内藩の支配地となる。この後藩は古丹別川右岸に陣屋を設ける。松浦武四郎が著した「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」では天売の地名21が記載されている。 1865(元治2・慶応元)年、善弥が天売のベンザイトマリにて鰊行成網(定置網漁法のひとつで建網の一種)を経営する。 1868(慶応4・明治元)年、善弥の鰊行成網は廃業する。庄内藩は陣屋を引揚げ、藩士・農民等を帰国させる。秋田県戸賀村(現・秋田県男鹿市戸賀)より畠山藤兵衛等12名が鱈釣り、鰊刺網のために来島する。 1869(明治2)年、7月開拓使設置。明治政府が開拓使を設置し、蝦夷地を北海道と改め国郡を設定する、天売島は手塩国苫前郡に属す。水戸藩の支配地となる。 1871(明治4)年、各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。この年の出稼ぎ漁民、男鹿(秋田)7人、松前1人(雇漁夫11人)。定住者なし。 1874(明治7)年、青森県人の熊木平作が栖原の漁具・建物の管理のため天売で越冬する。 1875(明治8)年、3月開拓使留萠支庁が廃され、開拓使札幌本庁の管轄下となる。出張所を置く。 1876(明治9)年、天売村発足。天売村の厳島神社が村社となる。 1879(明治12)年、郡区町村制が定められ、留萌に郡役所設置、焼尻村、天売村戸長役場を焼尻に設置。 1880(明治13)年、焼尻外一戸村長役場の管轄区域となる。12戸、234人。 1882(明治15)年、開拓使廃止となる。三県設置に伴い札幌県に属し、その治下に入る。青森より天売に木村宇太郎が移住する。 1883(明治16)年、曹洞宗説教所(現・海龍寺)創建され、寺子屋教育が始まる。 1884(明治17)年、天売・焼尻両島に郵便船の定期航路(渡海線)開設する。石橋秀三が自費で教師を招き教育を開始する。曹洞宗説教所で郵便業務開始。この年天売の森林が乱伐により禿山となる。 1885(明治18)年、日本郵船(株)の定期船(渡海船)が天売・焼尻に寄港開始する。 1886(明治19)年、1月三県を廃して北海道庁を設置する。 1888(明治21)年、天売に焼尻外一村戸長役場派出所開設する。 1890(明治23)年、6月焼尻小学校天売分校開設する。鰊漁盛んとなる。藤山要吉が汽船天塩丸・北見丸が天売に寄港するようになる。天売で回漕業開始。 1892(明治25)年、5月天売小学校が独立する。 1895(明治28)年、天売尋常小学校となる。日清戦争勝利をを記念して天売島にカラマツ1000本植樹する。 1897(明治30)年、産卵のために日本海に来たニシンを97万5千トン漁獲する。 1900(明治33)年、1月天売で火災が発生し、海龍寺・民家・倉庫など8棟焼失する。天売郵便局が独立する。日本郵船株式会社の定期船が羽幌〜焼尻〜天売に寄港する。 1901(明治34)年、焼尻〜天売間の海底電線敷設され、天売郵便局で電信業務開始する。天売に私設消防組創立。両島汽船株式会社設立する。 1902(明治35)年、天売・焼尻のニシン漁船70隻が天売港で暴風のため転覆、死者228人。9月天売戸長役場が焼尻より独立する。天売消防組設置。真宗大谷派布教所(後の興徳寺)開設する。天売の植樹は大正期まで続けられる。 1903(明治36)年、3月天売尋常小学校に高等科併置。天売厳島神社を現在地に遷座する。鳥海山神社建立する。 1904(明治37)年、ニシン建網(定置網)50統、同刺し網7766放、漁獲高15000石(一石=生ニシン750kg)、入稼漁夫2500人。浄土宗布教所(後の修善寺)開設する。 1906(明治39)年、2級町村制施行で天売村役場と改称。415戸・1876人、ニシン漁不漁期に入り、島民の生活困窮。 1908(明治41)年、タラ釣り漁船34隻遭難、死者230人。両島汽船株式会社解散する。 1912(明治45・大正元)年、字ゴメサキにアワビの禁漁区を設置する。 1915(大正4)年、日本郵船(株)の定期船(渡海船)廃止。 1919(大正8)年、天売で火災発生し5戸焼失する。 1920(大正9)年、ニシン大漁、約30000石 (最高記録)(一石=750kg)。この年の後ニシン凶漁が続く。 1921(大正10)年、7月町制施行、羽幌町となる。 1932(昭和7)年、天売漁港修築工事着工する。 1933(昭和8)年、苫前・焼尻・天売を結ぶ航路開かれる。江野力が札幌逓信局と契約して羽幌〜焼尻・天売を結ぶ郵便航路開かれる。 1934(昭和9)年、天売漁港竣工。 1935(昭和10)年、苫前両島定期航路株式会社設立し、苫前〜羽幌〜焼尻〜天売航路に就航する。天売道路修繕する。 1938(昭和13)年、天売島が海鳥繁殖地が国の天然記念物として指定。ウミガラス4万羽。 1940(昭和15)年、焼尻・天売村の改名・地番改正する。 1942(昭和17)年、苫前両島定期航路株式会社は「両島運輸」に社名変更する。 1944(昭和19)年、漁業組設立。(羽幌・焼尻・天売) 1947(昭和22)年、天売中学校創立。 1948(昭和23)年、天売電気協同組合設立する。旭川の業者が天売島の鳥糞採取を計画するが島民の猛反対に遭い中止する。 1949(昭和24)年、漁業協同組合(羽幌・焼尻・天売)に改組。天売電気会社設立する。 1950(昭和25)年、発電所設置し天売島は電化となる。苫前両島定期船(両島運輸)が羽幌にも寄港するようになる。 1952(昭和27)年、天売観光道路新設する。 1954(昭和29)年、天売灯台新設。天売高校を中学校に併置し開校する。 1955(昭和30)年、羽幌町と合併、大字天売と改称。天売支所設置する。 1956(昭和31)年、ニシン凶漁、乱獲によってニシンの群は北海道から姿を消し、生態系が壊れ以後ニシン漁業消滅。ウミガラス激減する。11月天売小学校新築し移転する。 1957(昭和32)年、北海道のニシン漁は終わった。 1959(昭和34)年、4月焼尻村を羽幌町に編入する。 1961(昭和36)年、天売・焼尻に発電所完成する。 1963(昭和38)年、鳥類研究者が天売島海鳥調査実施。ウミガラス8千羽。 天売高等学校新校舎新築落成する。 1960年代から70年代にかけて島周辺で盛んに行われた[サケ・マス流し網]漁業による混獲で、おびただしい数のウミガラスが犠牲になった。 1964(昭和39)年、天売・焼尻道立自然公園(後の暑寒別天売焼尻国定公園)指定。 1969(昭和44)年、6月離島電気海底ケーブル敷設する。苫前港から羽幌港へ両島の母港が移転する。 1970(昭和45)年、3月両島の電気施設は北電に移管する。 1972(昭和47)年、環境庁、天売島のウミガラス1117羽と報告。焼尻・天売への観光客約5万人。 1978(昭和53)年、天売深層地下水調査する。天売診療所落成する。 1980(昭和55)年、ウミガラス553羽。天売島の重要水源山地整備治山事業を開始。 1980年代から食糧難のトド、アザラシなどが[カレイ・タラの刺し網] を食いちぎる被害増加。 1982(昭和57)年、天売島、国設鳥獣保護区に指定。 1986(昭和61)年、ウミネコ6万羽。 1989(平成元)年、フェリー「おろろん」就航。 1990(平成2)年、暑寒別天売焼尻国定公園指定。屏風岩にウミガラスのデコイ設置して、ウミガラスを呼び戻さざるを得なくなった。 1991(平成3)年、4月高速船「さんらいなぁ」就航。羽幌町が常駐の海鳥調査員を配置。 1996(平成8)年、羽幌・天売・焼尻漁業協同組合が合併。 1997(平成9)年、羽幌に北海道海鳥センター設置。 2000(平成12)年、ウミネコが半減し、3万羽になる。 2001(平成13)年、コオナゴが不漁、コウナゴを捕食するホッケが不漁。コウナゴを捕食するウミガラス21羽。フェリー「おろろん2」就航する。 2002(平成14)年、ウミガラス13羽で絶滅の危機。 2004(平成16)年、観察史上初、ウミガラスは繁殖数0羽になった。天売小中学校の校舎新築落成。 2005(平成17)年、2年連続、ウミガラスは繁殖数0羽。さらにウミネコの繁殖も0羽となった。 2013(平成25)年、高速船「さんらいなぁ2」就航し、羽幌側の発着地を中央ふ頭の新ターミナルに移転する。 羽幌町史参考 |