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会津藩士の墓

住所 苫前郡羽幌町大字焼尻字東浜

羽幌町観光協会

苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。
羽幌の由来は、アイヌ語の「ハホロペツ」(流出広大の川)または「ハボロベツ」(広大な川の流域)から。
焼尻の由来は、アイヌ語の「エハンケ・シリ」(近い島)、あるいは「ヤンケ・シリ」(水揚げする島)。
東浜の由来は、焼尻島の東海岸に位置することから。
羽幌町役場焼尻支所の横から遊歩道があり、入口左手に碑があるので焼尻支所を目指すのがいいだろう。

会津藩は、1808(文化5)年10月から翌年にかけて樺太から帰還した記述がある。会津藩の北方警備は、1807年(文化4年)から1809年(文化6年)にかけ、江戸幕府によって会津藩が樺太への出兵を命じられることにはじまり、総勢1558名が宗谷岬や利尻島、樺太に駐留したともいい、会津藩の樺太出兵とも呼ばれている。
しかし、1808年(文化5年)樺太出兵から帰還中の会津藩士が嵐に遭い船が難破、一部は天売島、焼尻島へ避難するも、51名の死者を出した。焼尻島に多数の遺体が漂着したことから島民が手厚く埋葬し墓を立てたそうだ。また別な資料では、警備のため出陣したが、船中にて病没したため焼尻島に寄港し埋葬したとの記述もあるそうで詳細は定かではないらしい。
一基には「会津小原内匠忠貫」「文化五年戊辰七月十一日」、他の一基には「会津山内一学豊忠」「文化五年戊辰七月十六日」の刻がある。 他にも、宗谷岬の北端には会津藩士の墓と句碑が建てられていて、利尻島にも会津藩士の墓がある。

東浜は、1940(昭和15)年焼尻・天売村の改名・地番改正し東浜となった。このときアイヌ語系の地名は全て消えた。江戸期から明治初期までアイヌの集落があった。1807(文化4)年には61人のアイヌが生活していたようである。運上屋と付属の産物蔵7軒、番屋、近郊には漁小屋、蔵などもあった。
1875(明治8)年焼尻の厳島神社が村社となる。焼尻となったのは1876(明治9)年である。それ以前は苫前の管轄下にあり、クシュナペシポ(カネシメ沢川北側)・ヌソマナイ(カネシメ沢川付近)・トカラスケ(カネシメ沢川南側)・ウエントマリ(焼尻港南)・コタン(東浜中央)・フンベトマリ(焼尻港北)・トマリヤサム(焼尻港)など小字が多数あったが東浜になっている。1880(明治13)年焼尻外1戸村長役場の管轄区域となる。12戸、234人。明治中期からは通称・字会所前と称していた。1882(明治15)年一戸栄弥が焼尻村オネトマリ(西浦)で寺子屋式の教育を開始する。1884(明治17)年定期船が焼尻港に寄港開始する。天売・焼尻両島に郵便船の定期航路(渡海線)開設する。焼尻に商店開店する。1885(明治18)年日本郵船(株)の定期船が天売・焼尻に寄港開始する。1886(明治19)年焼尻にて森林火災あり島の三分の一を焼失する。1902(明治35)年天売戸長役場が焼尻村より独立する。1906(明治39)年2級町村制施行で焼尻村役場と改称。
 1916(大正5)年11月焼尻厳島神社現在地に遷座する。
 1933(昭和8)年羽幌〜焼尻・天売を結ぶ航路開かれる。1940(昭和15)年焼尻・天売村の改名・地番改正する。1942(昭和17)年焼尻に綿羊入る。1947(昭和22)年焼尻・天売の各中学校創立する。11月焼尻に電気の供給開始する。1959(昭和34)年4月焼尻村を羽幌町に編入する。1961(昭和36)年天売・焼尻に発電所完成する。1962(昭和37)年焼尻地区めん羊事業開始。1964(昭和39)年天売・焼尻道立自然公園指定(後の暑寒別天売焼尻国定公園)。1968(昭和43)年11月焼尻厳島神社全焼する。1970(昭和45)年3月両島の電気施設は北電に移管する。1972(昭和47)年5月焼尻島の深地層地下水調査ボーリング実施。焼尻天売への観光客約5万人。1977(昭和52)年焼尻郷土館(小納邸、明治33年建築)羽幌町有形文化財指定 (12月19日)。1978(昭和53)年7月焼尻郷土館開館する。1979(昭和54)年焼尻郷土館(小納邸)北海道有形文化財指定(11月27日)。1987(昭和62)年焼尻島白浜にラノルド・マクドナルドの上陸記念トーテムポールを設置する。焼尻にある旧秋山邸を北海道開拓の村に移築する。
 1990(平成2)年8月暑寒別天売焼尻国定公園指定。1991(平成3)年4月高速船「さんらいなぁ」就航。2011(平成23)年羽幌が舞台の全国放送のテレビドラマ「幸福の黄色いハンカチ」のロケが市街地、焼尻島で行われる。


紀元前5000頃縄文時代前期 海の幸に恵まれた天売・焼尻島に人が住み始める。(土器や石器が出土している)
900-1200頃 縄文文化(最後の土器文化)がこの島に及ぶ。(擦文文化)
1667(寛文7)年、「松前蝦夷図」に初めて「テウリエゾ」の名が現れる。
1670(寛文10)年、津軽藩の蝦夷地調査書にともまい(苫前)・てうれ(天売)・らいけ(焼尻)・はほろ(羽幌)・てしほ(天塩)の地名がある。
1700(元禄13)年、この年から数年間、ハホロヘニ30人ずつ金採掘に派遣される。2月松前藩は全島地図「松前郷帳」(小川養甫作成)を幕府に提出する。同地図に「とままい・はほろ・つくべつ・てふれ・・島」の地名が載る。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛が宗谷場所、ルルモッペ場所を請負う(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)。
1746(延享3)年、福山の人、山田某焼尻に始めてニシン漁を営む。
1778(安永7)年 、焼尻に同年8月15日付の墓碑がる。
1786(天明6)年、6代栖原角兵衛、焼尻・天売・天塩場所の漁場請負を命ぜられる。
1792(寛政4)年、ニシン漁のために出稼ぎに来ていたアイヌ人23人が遭難。
1804(文化元)年、栖原屋の支配人(栖原彦兵衛)苫前・天売・焼尻に弁財天をまつる(厳島神社の創始)。北村弥右衛門を派遣して焼尻に四ヵ統の鰊建網を経営する。
1807(文化4)年、西蝦夷地、幕府領となりこの頃天売島は無人島となり、焼尻・苫前・手塩のアイヌの出稼ぎ地となる。
1808(文化5)年、樺太(サハリン)警備を終えて帰国途中の会津藩士の小原忠貫・与力山内豊忠が船中で病死する。ヤンケシリ(焼尻島)島に葬られる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1843(天保14)年、福山の平沢富右衛門が北村に代わって焼尻の支配人となる。
1844(天保15・弘化元)年、山内多三郎・栖原の番人らが焼尻の弁天社に鳥居を寄進する。
1848(嘉永元)年、米人ラノルド・マクドナルド焼尻に上陸。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。秋田藩の警備地となる。
1856(安政3)年、テシホ・トママイ場所を分割する。テウレ・ヤンケシリはテシホ場所に属する。
1857(安政4)年、初めて和人漁民の出稼ぎが許可され、秋田・津軽の漁民3人(雇漁夫39人)がニシン漁を始める。
1859(安政6)年、苫前領、天売、焼尻(天塩領)庄内藩の支配地となる。
1869(明治2)年、明治政府が開拓使を設置し、蝦夷地を北海道と改め国郡を設定する、焼尻島は手塩国苫前郡に属す。水戸藩の支配地となる。焼尻に会所を置く。
1871(明治4)年、各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。焼尻にて関谷長三郎、小倉近四郎が越年し永住する。
1875(明治8)年、3月開拓使留萠支庁が廃され、開拓使札幌本庁の管轄下となる。出張所を置く。焼尻の厳島神社が村社となる。
1878(明治11)年、焼尻会所前(東浜)〜オネトマリ(西浦)間の道路開削する。
1879(明治12)年、郡区町村制が定められ、留萌に郡役所設置、焼尻村、天売村戸長役場を焼尻に設置。
1880(明治13)年、焼尻外-戸村長役場の管轄区域となる。12戸、234人。栖原屋の漁場を吉田三郎右衛に譲渡する。焼尻の森林伐採が禁止となるが盗伐が後を絶たなかった。
1881(明治14)年、10月加勢玄海が焼尻島に曹洞宗願海寺(現・苫前郡羽幌町焼尻西浦17)開設する。
1882(明治15)年、開拓使廃止となる。三県設置に伴い札幌県に属し、その治下に入る。一戸栄弥が焼尻村オネトマリ(西浦)で寺子屋式の教育を開始する。翌年からは曹洞宗願海寺で行う。汽船栄喜丸が焼尻に来航。この頃から焼尻にて柾屋建ち始める。
1884(明治17)年、定期船が焼尻港に寄港開始する。天売・焼尻両島に郵便船の定期航路(渡海線)開設する。焼尻に商店開店する。郵便局開局する。開業医を招く。
1885(明治18)年、日本郵船(株)の定期船が天売・焼尻に寄港開始する。
1886(明治19)年、1月三県を廃して北海道庁を設置する。焼尻にて森林火災あり島の三分の一を焼失する。
1888(明治21)年、焼尻会所前〜レフトロ(豊崎)間道路開削する。
1890(明治23)年、10月焼尻小学校開設する。鰊漁盛んとなる。
1891(明治24)年、艀業・銭湯開業する。
1895(明治28)年、焼尻会所前〜アイカゲ(白浜)間の道路開削する。
1897(明治30)年、産卵のために日本海に来たニシンを97万5千トン漁獲する。焼尻〜本島への海底電線敷設する。
1901(明治34)年、焼尻〜天売間の海底電線敷設される。
1902(明治35)年、天売・焼尻のニシン漁船70隻が天売港で暴風のため転覆、死者228人。9月天売戸長役場が焼尻村より独立する。11月焼尻小学校全焼(36年に新築する)となる。
1904(明治37)年、ニシン建網(定置網)50統、同刺し網7766放、漁獲高15000石(一石=生ニシン750kg)、入稼漁夫2500人。焼尻小学校全焼(38年新築する)する。
1906(明治39)年、2級町村制施行で焼尻村役場と改称。ニシン漁不漁期に入り、島民の生活困窮。馬2頭入る。人口2187人。
1908(明治41)年、焼尻漁業組合設立。
1913(大正2)年、焼尻灯台設置。会所前で大火が発生し、14戸焼失する。
1915(大正4)年、定期航路(渡海線)廃止となる。
1916(大正5)年、11月焼尻厳島神社現在地に遷座する。
1933(昭和8)年、苫前・焼尻・天売を結ぶ航路開かれる。焼尻水産物検査所派出所開設。船入澗修繕工事着工(翌年竣工)する。江野力が札幌逓信局と契約して羽幌〜焼尻・天売を結ぶ郵便航路開かれる。
1935(昭和10)年、焼尻村役場新築落成する。苫前両島定期航路株式会社設立し、苫前〜羽幌〜焼尻〜天売航路に就航する。
1938(昭和13)年、3月焼尻に電話架設する。
1940(昭和15)年、焼尻・天売村の改名・地番改正する。
1942(昭和17)年、焼尻測候所設置する。焼尻に綿羊入る。苫前両島定期航路株式会社は「両島運輸」に社名変更する。
1944(昭和19)年、漁業組設立。(羽幌・焼尻・天売)
1946(昭和21)年、12月焼尻小学校新築落成する。
1947(昭和22)年、11月焼尻に電気の供給開始する。
1948(昭和23)年、焼尻漁港建設工事着工する。
1949(昭和24)年、漁業協同組合に改組(羽幌・焼尻・天売)。無線通信施設開設する。
1950(昭和25)年、苫前両島定期船(両島運輸)が羽幌にも寄港するようになる。焼尻にトラック入る。沿岸監視哨設置する。イタチを50匹放つ。
1952(昭和27)年、焼尻灯台霧笛信号所設置する。焼尻港防波堤に赤灯台設置する。
1954(昭和29)年、神威岩標識灯台竣工する。世帯は420戸、2763人。
1956(昭和31)年、ニシン凶漁、乱獲によってニシンの群は北海道から姿を消し、生態系が壊れ以後ニシン漁業消滅。ウミガラス激減する。
1957(昭和32)年、北海道のニシン漁は終わった。
1959(昭和34)年、4月焼尻村を羽幌町に編入する。
1961(昭和36)年、天売・焼尻に発電所完成する。焼尻診療所新築する。
1962(昭和37)年、焼尻地区めん羊事業開始。
1964(昭和39)年、天売・焼尻道立自然公園指定(後の暑寒別天売焼尻国定公園)。
1968(昭和43)年、11月焼尻厳島神社全焼する。
1969(昭和44)年、6月離島電気海底ケーブル敷設する。苫前港から羽幌港へ両島の母港が移転する。
1970(昭和45)年、3月両島の電気施設は北電に移管する。
1972(昭和47)年、5月焼尻島の深地層地下水調査ボーリング実施。焼尻天売への観光客約5万人。
1977(昭和52)年、焼尻郷土館(小納邸、明治33年建築)羽幌町有形文化財指定 (12月19日)
1978(昭和53)年、7月焼尻郷土館開館する。
1979(昭和54)年、町立焼尻高校閉校(3月31日)。焼尻郷土館(小納邸)北海道有形文化財指定(11月27日)
1984(昭和59)年、焼尻役場支所庁舎竣工する。佐藤一夫氏がヒラメの養殖を始める。
1986(昭和61)年、焼尻厳島神社の鳥居脚部・鰐口が羽幌町有形文化財に指定される。
1987(昭和62)年、焼尻島白浜にラナルド・マクドナルドの上陸記念トーテムポールを設置する。焼尻にある旧秋山邸を北海道開拓の村に移築する。
1989(平成元)年、フェリー「おろろん」就航。
1990(平成2)年、暑寒別天売焼尻国定公園指定。
1991(平成3)年、高速船「さんらいなぁ」就航。焼尻西浦北防灯台完成 。
1996(平成8)年、羽幌・天売・焼尻漁業協同組合が合併。
1997(平成9)年、羽幌に北海道海鳥センター設置。
2001(平成13)年、フェリー「おろろん2」就航する。
2009(平成21)年、羽幌炭砿鉄道「SL58629号」撤去。
2011(平成23)年、羽幌が舞台の全国放送のテレビドラマ「幸福の黄色いハンカチ」のロケが市街地、焼尻島で行われる。
2013(平成25)年高速船「さんらいなぁ2」就航し、羽幌側の発着地を中央ふ頭の新ターミナルに移転する。
羽幌町史参考
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