北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

羽幌町郷土資料館

住所 苫前郡羽幌町南町20-1
TEL 0164-62-4519
開館期間 5〜10月
開館時間 10時〜16時 
休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日が休館日)
料金 19歳以上は210円 18歳以下は無料

羽幌町観光協会

羽幌町内で発掘された貴重な化石類の展示、中でも1億年ほど前のものと推定されている花の化石『ハボロハナ化石』は世界的にも数例しかないという珍しいものでレプリカが展示されている。
古代(縄文時代など)、開拓期、産業活動の様子、ニシン漁の時代、炭鉱の時代などの隆盛を伝える資料など、羽幌に関する歴史の変遷が色々な資料で判りやすく展示されている。
当時の開拓小屋の復元もあり、仮小屋の作りには現代の人は寝れるのかと思うほど。
様々な生活用具も展示され興味深いものがある。


特に羽幌炭坑、羽幌炭坑鉄道の資料と展示物はマニアにはたまらないだろう。
資料館の館長は、羽幌炭鉱に詳しく炭鉱巡りをするならまずここに寄って知識を詰め込んでから行くのをオススメします。
当時の資料や航空写真、遺構の詳細な場所やDVDでの映像なども見せて頂けます。
私も炭鉱を回ってからこちらの資料館に行ったのですが、後悔したほどです。
羽幌炭鉱は、羽幌町の市街地から、道道747号線を東に約20km付近の山の中に集合住宅や貯炭場などが朽ち果てた状態で点在している。
付近の山の中には、集合住宅や貯炭場・ホッパー・選炭工場・運搬立抗などが朽ち果てた状態で点在している。
当時国内有数の優良炭鉱とされ、最盛期には人口約1万3000人もの人が住んでいたが、1970(昭和45)年閉山となる。
羽幌炭鉱は、築別抗羽幌本坑上羽幌抗の3鉱区からなり、1940(昭和15)年開業し、羽幌炭鉱鉄道株式会社が経営していた。
1961(昭和36)年、年間出炭量100万tを超え、1968(昭和43)年には年間出炭量が114万tにもなった。
1970(昭和45)年、羽幌炭砿鉄道株式会社閉山(設立から30年で幕を閉じる)急激な人口減少。羽幌炭鉱鉄道廃止。
その後、石油へのエネルギー転換に伴う特別閉山措置法を受け、1970(昭和45)年、11月に閉山した。
羽幌町の由来は、アイヌ語の「ハホロペツ(流出広大の川)」または「ハボロベツ(広大な川の流域)」から。
現在は、羽幌観光協会が、炭鉱遺構を観光資源として見直し、炭鉱遺構を巡るツアーを催したり沿岸ハイヤーでも案内してくれるそうだ。


羽幌に人が定住するようになったのは、1885(明治18)年、工藤浅吉が羽幌川渡船場の渡守として住んだのが始まりとされており、それ以前は漁の為来たが、漁期が終わると帰り定住するものは居なかったという。
1886(明治19)年、には青森県人、立崎熊次郎・川口政吉・紫谷善兵衛らがニシン漁を始めている。
1887(明治20)年、には石川県人、斉藤知一・中西文三郎・黒田某らが捕鯨漁を始め、羽幌は一躍漁業で賑わうことになるのである。
1892(明治25)年には、越年するものが120戸にもなったそうだ。
人口も増加し、商店・学校や説教所などが開業するようになり、1894(明治27)年2月3日、苫前村から羽幌村が分離、行政区域として羽幌村ができ、羽幌官林中の一部解除され、貸付地区に編入されるが、戸長役場は苫前にあった。
同年、4月19日には羽幌市街地の区画が発表され、1896(明治29)年からは、福井県・富山県・熊本県などの地方から団体約400戸が入植し、原野の開拓が始まったのである。


本間家は、畑野(現・新潟県佐渡市畑野)で江戸時代に酒造業を営み、代々本間藤右衛門を襲名する名家だった。
佐渡有数の資産家で、能や連歌・華道にも通じていたそうだ。
七代目本間藤右衛門は、1893(明治26)年に羽幌へ移住し酒造りを行なったのである。
羽幌での酒造りは、1914(大正3)年より始め、銘酒「玉の輿」を産み、羽幌の産業振興に貢献した。
1943(昭和18)年、廃業する。


2階には、大きなアンモナイトがいっぱい展示されている。留萌管内はアンモナイトの化石が多く、羽幌町の山奥でも数多く発掘されておりここには珍しい物も多数展示されている。


紀元前5000頃縄文時代前期 海の幸に恵まれた天売・焼尻島に人が住み始める。(土器や石器が出土している)
900-1200頃 縄文文化(最後の土器文化)がこの島に及ぶ。(擦文文化)
1650年代、明暦年間に羽保路の金を掘ると記述がある。
1667(寛文7)年、「松前蝦夷図」に初めて「テウリエゾ」の名が現れる。
1690(元禄3)年、松前藩の藩士及び鉱夫数10名、羽幌で砂金採取する。
1692(元禄5)年、羽保路の蝦夷ウムシテの虚説を口実に鉱夫60余名福山に逃げ帰るとある。
1746(延享3)年、福山の人、山田某焼尻に始めてニシン漁を営む。
1778(安永7)年 、焼尻に同年8月15日付の墓碑がる。
1786(天明6)年、6代栖原角兵衛、焼尻・天売・天塩場所の漁場請負を命ぜられる。
1792(寛政4)年、ニシン漁のために出稼ぎに来ていたアイヌ人23人が遭難。
1807(文化4)年、西蝦夷地、幕府領となりこの頃、天売とは無人島となり、焼尻・苫前・手塩のアイヌの出稼ぎ地となる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1848(嘉永元)年、米人ラノルド・マクドナルド焼尻に上陸。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。
1857(安政4)年、初めて和人漁民の出稼ぎが許可され、秋田・津軽の漁民3人(雇漁夫39人)がニシン漁を始める。
1859(安政6)年、苫前領、天売、焼尻(天塩領)庄内藩の支配地となる。
1869(明治2)年、明治政府が開拓使を設置し、蝦夷地を北海道と改め国郡を設定する。
1874(明治7)年、アメリカの地質学者ライマンにより調査が行われる。
1875(明治8)年、青森県人の熊木平作が、天売島に移住し楢原漁場の管理人として家族と共に初めて越冬。
1883(明治16)年、天売島にて、曹洞宗説教所創建され、寺子屋教育が始まる。
1886(明治19)年、青森県人、立崎熊次郎・川口政吉・紫谷善兵衛らがニシン漁を始める。
1887(明治20)年、築別川畔に会津藩士の青木宗吾が移住。
1888(明治21)年、北海道庁が築別川炭層を調査する。
1894(明治27)年、苫前村から羽幌村が分離、行政区域として羽幌村が設置される。
1896(明治29)年、羽幌原野に福井・富山県から約400戸団体移住者入植、上羽幌へも数人が入植する。
1897(明治30)年、羽幌村戸長役場が設置される。(苫前村戸長役場から独立)、岡田佐助が馬そりにて露頭部より約1万tを採掘する。産卵のために日本海に来たニシンを97万5千トン漁獲する。
1899(明治32)年、越中団体が稲の試作を行う。
1900(明治33)年、羽幌原野に官設渡船場(二ヵ所)設置。
1901(明治34)年、捕鯨漁廃止する。羽幌漁業協同組合設立。
1902(明治35)年、二級町村制施行、羽幌村役場と改称。天売・焼尻のニシン漁船70隻が天売港で暴風のため転覆、死者228人。築別に澱粉工場設立。
1903(明治36)年、羽幌・築別原野道路開削。天売水産組合設立。
1904(明治37)年、ニシン建網(定置網)50統、同刺し網7766放、漁獲高15000石(一石=生ニシン750kg)、入稼漁夫2500人。
1905(明治38)年、稚蚕飼育所設置する。
1906(明治39)年、ニシン漁不漁期に入り、島民の生活困窮。
1908(明治41)年、吉尾松二・14名の名羽線踏査隊、羽幌から名寄へ。焼尻漁業組合設立。養蚕伝習所開設。
1909(明治42)年、羽幌村に一級町村制施行。
1910(明治43)年、羽幌土功組合設立する。
1914(大正3)年、築別御料に三毛別炭坑発掘。
1916(大正5)年、佐藤寅吉による稲の試作が始まる。
1920(大正9)年、築別原野土功組合設立する。
1921(大正10)年、町制施行、羽幌町となる。
1923(大正12)年、国鉄羽幌線着工する。
1931(昭和6)年、古賀六郎に羽幌炭鉱開発の実地調査を命じる。名寄から名羽線踏査スキー隊来町する。
1932(昭和7)年、国鉄羽幌線(羽幌迄)開通する。
1933(昭和8)年、苫前・焼尻・天売を結ぶ航路開かれる。焼尻水産物検査所派出所開設。
1938(昭和13)年、天売島が海鳥繁殖地が国の天然記念物として指定。 ウミガラス4万羽。
1939(昭和14)年、太陽産業株式会社の築別炭砿開発始まる。
1940(昭和15)年、築別炭砿開抗し、採炭始まる。羽幌炭鉱鉄道株式会社設立、羽幌炭鉱鉄道の工事着手。
1941(昭和16)年、羽幌炭砿鉄道開通する。国鉄羽幌線、羽幌〜築別間開通する。
1942(昭和17)年、羽幌御料農地解放、自作農創設する。
1943(昭和18)年、羽幌森林組合設立する。
1944(昭和19)年、漁業組設立。(羽幌・焼尻・天売)。羽幌町農業会設立。
1946(昭和21)年、ベントナイト採堀するが、まもなく中止。
1947(昭和22)年、羽幌二坑(上羽幌)の開発着手する。
1948(昭和23)年、羽幌本坑(三毛別)の開発着手、二坑を合併し三毛別に羽幌砿業所設置する。羽幌町農業協同組合設立。
1949(昭和24)年、漁業協同組合に改組。(羽幌・焼尻・天売)
1950(昭和25)年、築別炭鉱でストライキ起こる。
1953(昭和28)年、羽幌町の人口が2万人超える。
1955(昭和30)年、4月1日天売村を編入する。
1956(昭和31)年、羽幌炭鉱の石炭年産50万t突破する。ニシン凶漁、乱獲によってニシンの群は北海道から姿を消し、生態系が壊れ以後ニシン漁業消滅。ウミガラス激減する。
1957(昭和32)年、北海道のニシン漁は終わった。
1958(昭和33)年、日本ベントナイト工業設立。
1959(昭和34)年、4月1日焼尻村を編入する。
1960(昭和35)年、豪雨のため羽幌鉱地区水害発生。
1962(昭和37)年、名羽線起工式挙行。国鉄名羽線(曙〜三毛別間3.9km)完成。羽幌本坑に第2選炭場完成。石炭年産100万t達成する。焼尻地区めん羊事業開始。
1963(昭和38)年、鳥類研究者が天売島海鳥調査実施。ウミガラス8千羽。
1964(昭和39)年、羽幌町の人口3万人突破。天売・焼尻道立自然公園指定。
1965(昭和40)年、羽幌本坑に運搬立抗完成する。
1966(昭和41)年、羽幌ダム完成。
1968(昭和43)年、羽幌炭鉱の年間出炭量が114万tになる。
1970(昭和45)年、羽幌炭砿鉄道株式会社閉山(設立から30年で幕を閉じる)急激な人口減少。羽幌炭鉱鉄道廃止。
1971(昭和46)年、上羽幌小中学校廃校。
1972(昭和47)年、環境庁、天売島のウミガラス1117羽と報告。焼尻天売への観光客約5万人。
1974(昭和49)年、上羽幌、上流・下流部落合併する。
1977(昭和52)年、焼尻郷土館(小納邸、明治33年建築)羽幌町有形文化財指定 (12月19日)
1978(昭和53)年、羽幌二股ダム完成。
1979(昭和54)年、焼尻郷土館(小納邸)北海道有形文化財指定(11月27日)
1981(昭和56)年、国鉄名羽線工事凍結。
1982(昭和57)年、緑の村開村する。天売島、国設鳥獣保護区に指定。
1987(昭和62)年、3月30日に羽幌線廃止。国鉄における最後の路線廃止であった。
1989(平成元)年、フェリー「おろろん」就航。
1990(平成2)年、暑寒別天売焼尻国定公園指定。屏風岩にウミガラスのデコイ設置して、ウミガラスを呼び戻さざるを得なくなった。
1991(平成3)年、高速船「さんらいなぁ」就航。羽幌町が天売島に常駐の海鳥調査員を配置。
1996(平成8)年、羽幌・天売・焼尻漁業協同組合が合併。
1997(平成9)年、羽幌100年記念式典を行う。緑の村閉村。羽幌に北海道海鳥センター設置。
2000(平成12)年、羽幌緑の村閉鎖する。
2001(平成13)年、コオナゴが不漁、コウナゴを捕食するホッケが不漁。コウナゴを捕食するウミガラス21羽。
2002(平成14)年、ウミガラス13羽で絶滅の危機。
2004(平成16)年、観察史上初、ウミガラスは繁殖数0羽になった。
2005(平成17)年、2年連続、ウミガラスは繁殖数0羽。さらにウミネコの繁殖も0羽となった。
2009(平成21)年、羽幌炭砿鉄道「SL58629号」撤去。
2011(平成23)年、羽幌が舞台の全国放送のテレビドラマ「幸福の黄色いハンカチ」のロケが市街地、焼尻島で行われる。

七代目、本間藤右衛門とは、1861(文久元)年 - 1931(昭和6)年、享年71歳。本間家の長男として生まれ、幼名は村蔵。羽幌町に貢献した功労者。
1892(明治25)年、北海道開拓共進会が札幌で開催され、北海道の視察を兼ねて渡道。
共進会を見た後、函館・網走・増毛・天塩などを巡った。
1893(明治26)年、再度来道し、小樽渡辺呉服店の呉服商品全部を引き受け、羽幌に移り営業を始める。
1894(明治27)年、妻子を佐渡から連れて来る、そのとき酒造道具等も取り寄せ呉服商のほか酒造業を開始する。
しかし、羽幌川の洪水で酒造蔵や道具が大損害を受け、止むなく一時休業する。
1914(大正3)年、酒造・澱粉製造・醤油醸造も行っている。
酒の銘柄は、「玉の輿」「藤甘露」で水質もよく銘酒であった。
羽幌資料館に230点もの貴重な品を寄贈している。

羽幌炭礦鉄道とは、苫前郡羽幌町に鉄道路線を有した民営鉄道で、羽幌炭鉱から産出される石炭を搬出するために建設された鉄道。
1941(昭和16)年に開通したが、1970年の炭鉱閉山とともに廃止された。
羽幌炭鉱(築別炭鉱、羽幌坑、上羽幌坑)のあった苫前炭田では、1895(明治27)年に生保内弥助が2鉱区を設定する。
1896(明治29)年、岡田佐助に譲渡、1897(明治30)年、岡田佐助が馬そりにて露頭部より約1万tを採掘する。
当時は、適切な運搬手段がなく、大規模な開発には至らなかった。
1918(大正7)年、鈴木商店(日商岩井の前身)が一帯の鉱区を買収した。
1931(昭和6)年、同社傍系の太陽曹達が所有し、1939(昭和14)年太陽産業株式会社として開発に着手した。
戦後は上羽幌坑と羽幌坑(三毛別)の開坑により出炭量が増加して沿線人口も増えた。
1962(昭和37)年には工事中の国鉄名羽線(羽幌 - 朱鞠内間51.2km)のうち、軌条工事が完了した曙 - 三毛別間3.8kmで国鉄非営業線運送という異例の取扱いにより運炭列車が走った。
1969(昭和44)年にはディーゼル機関車を導入している。
出炭量は年産100万トンを超え、国内有数の優良鉱として近代化も進んでいたが、1970(昭和45)年9月1日、会社は札幌地方裁判所に会社更生手続開始申立書を提出した。
1970(昭和45)年、羽幌炭砿鉄道株式会社閉山(設立から30年で幕を閉じる)急激な人口減少。羽幌炭鉱鉄道廃止。

名羽線とは、名寄と羽幌を結ぶ予定だった路線で未成線である。
路線の目的は名寄と羽幌の連絡であるが、実際は羽幌炭坑鉄道の曙から深名線の朱鞠内の鉄道として建設されていた。羽幌〜朱鞠内(51.2km)
工事着工は、1962(昭和37)年、完成間近には炭坑は閉山され、全長3225mの苫竜トンネルを含む路盤の80%以上が完成していた。


大きな地図で見る
Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system