北海道応援サイト!がんばれ北海道!!満州清和開拓団殉難者供養之碑

満州清和開拓団殉難者供養之碑

住所 上川郡下川町渓和

しもかわ観光協会

上川の由来は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を訳したものである。
下川町の由来は、アイヌ語で名寄川支流パンケ川の沿岸を「パンケ・ヌカナン」(川下の・ヌカナン川)と称していたことから、意訳して「下川」とする。
渓和の由来は、地区内を流れるペンケ川に(渓)と、高台の地区名である「清和」の(和)をとって渓和とした。
下川鉱山に通じる道道354号ペンケ下川停車場線を約3kmほど進み、山の方に走るが迷う可能性が大きいので注意。

林の中を約4kmほど走ると碑がある。ペンケ川沿いはペンケヌカナン御料地と呼ばれ、1907(明治40)年ごろより入殖が始まり、土佐団体が入地したが、まもなく揉め事が起きて開墾せず引き上げている。
高台の渓和地区は戦後開拓により拓かれ、農林地帯として現在も発展している。
この辺りは、佐渡開拓団事件のあと清和開拓団が入植した地で、1946(昭和21)年11月から現在の下川町に、13戸22名が入植をした。
この供養碑は、入植地の一番上の高台に建てられているそうで、その地からは下川町の全貌が見渡せる絶景の地で、この界隈には現在も数戸の農家が住んでいる。


清和開拓団は、7つの部落に分かれていたが、後方の第6・7部落は襲撃により殆どが全滅。
戦闘・襲撃・自決で654名が死亡、生き残った人々の多くも難民収容所で死亡した。
1946(昭和21)年5月25日、帰国の途につき6月6日に舞鶴に上陸し、日本の土を踏んだのはわずか50名だったそうで、そのうちの20名も僅かの期間で病死するという、ほぼ全滅の形をとった悲劇の開拓団である。
満州での悲劇のあと、この地での開拓もまた苦労の連続であっただろう。8月27日の佐渡開拓団事件の日を命日としている。
下川町渓和の高台に慰霊碑を、1977(昭和52)年8月27日に建立し現在にいたっている。全長206cm、高さ160cm。自然石を使用。

写真には撮っていないのですが、裏面碑文
昭和十三年当時の我が国重要国策たる第七次集団移民
として同年三月三十日我等同志は故郷新潟県から雄躍
満州国虎林県清和地区に入植爾来孜孜営営として開拓
に従事すること七年間昭和二十年三月には一九五戸八
一〇名(うち成年男子一四四名は応召)が着々その実を
挙げていた、然るに太平洋戦争敗色濃き昭和二十年八月
九日突如としてソ連の参戦により怒涛の如く侵攻を開
始したソ連軍により無防備無抵抗の我等は土地も家屋
も或は一切の財産も之を放棄し只管に避難するのみ。即
ち同日午後二時全員清和地区から脱出先ず進路を北に
取り山中のみを彷徨しつ、東横林から西転して牡丹江
方向へ向わんと八月十三日宝清に至るや一八一名続い
て八月二十七日には佐渡開拓団跡地において三七一名
がソ連軍の襲撃を受けて殺戮された。さらに逃避行中虐
殺暴行略奪を恣にされ自ら生命を処理するもの餓死す
るもの或は凍死するもの病死するものその様相は正に
此世のものとは思われず言語想像を絶する凄惨悲愴
只々死者の冥福を祈るのみ。かかる難行艱苦のすえ故国
の土を踏んだもの僅かに五〇名その後さらに病死二〇
名を数え生存者ただの三〇名となる嗚呼如何でか人生
の残酷悲哀を歎せんや、再びかかる事態に遭遇すること
断じてあるべかざることを深く祈念す。ここに奇しく
も生ありて帰還したる我等一三戸二二名昭和二一年
十一月二十日この地に同志を弔い清和開拓団再建を期
して入植し乾坤一擲心を新たに鬱蒼たる森林を伐り開
き巨熊と斗って今日に至る。
 憶うに最大死者を出したる八月二十七日を合同慰霊
の日と定め昭和二十三年を第一回として茲に第三十三
回忌の法要を行うにあたり殉難者供養之碑を再建して
肉親同僚物故者に心からなる追悼の意を表す。
昭和五十二年八月二十七日の建

渓和地区は、1984(昭和59)年4月字名、地番の改正が行われ、渓和となる。もとは下川町字ペンケ・字名寄・名寄原野・名寄太原野・パンケヌカナン原野・上名寄・上名寄原野・ペンケヌカナン原野の各一部だった。ペンケヌカナン御料地とも言われていた。 1807(文化4)年近藤重蔵らがオホーツク沿岸から名寄川上流に出る。1859(安政4)年松浦武四郎天塩川流域を踏査し、名寄川およびサンル川まで至り、のちに天塩日誌を著す。

 1869(明治2)年蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定める。手塩国に6郡が設けられる(増毛、留萌、手塩、上川、中川、苫前)。8月天塩地方は水戸藩領となる。1871(明治4)年天塩一帯の支配は水戸藩から開拓使に移る。1872(明治5)年宗谷支庁の管轄化になる。開拓使宗谷支庁中主典の佐藤正克が名寄川を拠点に翌年まで越冬、名寄付近の実情調査を行い、闢幽日記を著す。1882(明治15)年開拓使廃止され、札幌県に属す。1888(明治21)年名寄川沿原野(名寄原野)に殖民区画が設定される。1897(明治30)年6月増毛支庁管内の天塩国上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の各四ヶ村が置かれ、天塩戸長役場管轄になる。(現・下川町は上名寄村に属す)1899(明治32)年5月天塩国上川郡を上川支庁に編入し、剣淵、士別、多寄、上名寄を管轄し剣淵戸長役場を設置する。下川地区区画測量行われる。1901(明治34)年岐阜県郡上郡高鷲村・北濃村(現・岐阜県郡上市)から25戸が、上名寄原野16線〜19線に集団移住し、開拓元年となる。1902(明治35)年4月剣淵戸長役場より分離し、上名寄村他二ヶ村(多寄、下名寄)戸長役場を設置する。上名寄に岐阜団体第二陣が到着する。八丈団体が入植する。5月ニの橋に新潟県人、谷庄三郎が入地する。10月名寄〜下川間に仮道路ができる。1903(明治36)年上名寄〜興部間の道路開通する。パンケヌカナン駅逓、シカリベツ駅逓が開設され付近に商店が出来る。下パンケ地区の開拓が始まる。1904(明治37)年北見街道の名寄〜紋別間が完工する。1905(明治38)年2月パンケヌカナン駅逓を下川駅逓に、シカリベツ駅逓を一の橋駅逓に改称する。1907(明治40)年4月下名寄・中川のニ村を割き、上名寄他一ヶ村戸長役場を設置する。1909(明治42)年4月戸長役場制が廃止となり多寄村が離れ、二級町村制が施行。上名寄村が誕生する。上名寄村風連別が多寄村に編入される。

 1915(大正4)年11月一級町村制が施行され、上名寄村が名寄町となり属する。ペンケ地区に小作人が入地する。1918(大正7)年合資会社下川木工場を設立する。名寄線の鉄道工事着工する。1919(大正8)年10月名寄線として名寄〜下川間の鉄道が開通し、上名寄、下川の各駅を新設する。上名寄と下川の駅周辺に市街が出来る。1920(大正9)年10月名寄線下川〜上興部間の鉄道が開通し、一ノ橋・上興部の各駅を新設する。1921(大正10)年下川で米の試作が行われる。1924(大正13)年1月名寄町から分村、二級町村制が施行され上川郡下川村となる。1926(大正15)年12月珊瑠鉱山が三井鉱山株式会社による操業を開始する。

 1932(昭和7)年パンケ・21線・22線・新興地区の開拓始まる。1933(昭和8)年桑の沢の開拓が始まる。御車沢に開拓者が入植する。1939(昭和14)年森林軌道パンケ線開通する。1941(昭和16)年三菱鉱業株式会社(下川鉱山)による操業を開始する。1942(昭和17)年パンケ森林軌道を新設する。1945(昭和20)年開拓移民緊急入植。東京・横浜方面から開拓者が入植し、数年間続いた。ペンケ地区の開拓が本格化するのはこの頃からである。1949(昭和24)年3月町制施行し下川町となる。ペンケ地区の世帯数は70戸、300人を超えた。一部が字ペンケとなる。1950(昭和25)年ペンケ軌道を撤去する。1951(昭和26)年6月下川〜雄武間の開発道路を開削する。1952(昭和27)年渓和小学校開校する。1959(昭和34)年パンケ森林軌道を撤去する。1960(昭和35)年地内が電化となる。1971(昭和46)年開成・渓和・二の橋・珊瑠・下川の小学校が統合となる。1972(昭和47)年渓和小学校は廃校となる。1984(昭和59)年4月字名、地番の改正が行われ、上名寄・班渓・渓和・西町となる。1986(昭和61)年道開発局のサンルダム建設計画が具体化する。1987(昭和62)年サンルダムの工事が決定する。

 1989(平成元)年4月名寄本線が廃止される。5月バス転換となる。1993(平成5)年サンルダム建設事業開始する。2000(平成12)年10月開拓100年記念式典が挙行。2017(平成29)年11月サンルダム本体コンクリート打設完了する。2018(平成30)年6月試験湛水開始する。2019(平成31)年3月竣工式挙行。4月ダム管理開始する。

1798(寛政10)年、幕府の属僚、武藤勘蔵らが天塩川を遡り上川に来る。(蝦夷日記
1800(寛政12)年、間宮林蔵が、松前蝦夷地図作成のため天塩川を遡る。
1807(文化4)年、近藤重蔵らがオホーツク沿岸から名寄川上流に出る。
1859(安政4)年、松浦武四郎天塩川流域を踏査し、名寄川およびサンル川まで至り、のちに天塩日誌を著す。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定める。手塩国に6郡が設けられる(増毛、留萌、手塩、上川、中川、苫前)。8月天塩地方は水戸藩領となる。
1871(明治4)年、天塩一帯の支配は水戸藩から開拓使に移る。
1872(明治5)年、宗谷支庁の管轄化になる。開拓使宗谷支庁中主典の佐藤正克が名寄川を拠点に翌年まで越冬、名寄付近の実情調査を行い、闢幽日記を著す。
1882(明治15)年、開拓使廃止され、札幌県に属す。
1886(明治19)年、4月北海道庁を設置する。
1888(明治21)年、名寄川沿原野(名寄原野)に殖民区画が設定される。
1897(明治30)年、5月天塩道路(現・国道40号)旭川から着工する。6月増毛支庁管内の天塩国上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の各四ヶ村が置かれ、天塩戸長役場管轄になる。(現・下川町は上名寄村に属す)
1899(明治32)年、5月天塩国上川郡を上川支庁に編入し、剣淵、士別、多寄、上名寄を管轄し剣淵戸長役場を設置する。下川地区区画測量行われる。
1900(明治33)年、上名寄村に山形団体が入植。越中・相馬団体入植する。
1901(明治34)年、岐阜県郡上郡高鷲村・北濃村(現・岐阜県郡上市)から25戸が、上名寄原野16線〜19線に集団移住し、開拓元年となる。
1902(明治35)年、4月剣淵戸長役場より分離し、上名寄村他二ヶ村(多寄、下名寄)戸長役場を設置する。上名寄に岐阜団体第二陣が到着する。八丈団体が入植する。5月ニの橋に新潟県人、谷庄三郎が入地する。10月名寄〜下川間に仮道路ができる。
1903(明治36)年、9月天塩線(現・宗谷本線)の士別〜名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。 上名寄〜興部間の道路開通する。藤原次郎左衛門が水稲の試作に成功する。パンケヌカナン駅逓、シカリベツ駅逓が開設され付近に商店が出来る。下パンケ地区の開拓が始まる。
1904(明治37)年、北見街道の名寄〜紋別間が完工する。6月上名寄19線に簡易教育所設置する。上名寄19線に小祠を建立し天照皇大神を奉斉。
1905(明治38)年、2月パンケヌカナン駅逓を下川駅逓に、シカリベツ駅逓を一の橋駅逓に改称する。4月天塩線が官設鉄道に移管となる。
1906(明治39)年、下名寄(現・美深町)が上名寄戸長役場から分離する。3月下川郵便局が開設される。この頃から下川の木材流送が始まる。
1907(明治40)年、4月下名寄・中川のニ村を割き、上名寄他一ヶ村戸長役場を設置する。23線に下川簡易教育所を設置する。一の橋に村上貞次郎入植する。山火事が起こり上興部の境まで延焼する。砂金ブームとなり下川の各沢で採取・発掘される。澱粉工場が稼働する。
1908(明治41)年、8月下川簡易教育所を下川尋常小学校に改称する。珊瑠・二の橋特別教育所開設される。然別(一の橋)特別教授場開設する。
1909(明治42)年、4月戸長役場制が廃止となり多寄村が離れ、二級町村制が施行。上名寄村が誕生する。上名寄村風連別が多寄村に編入される。10月旭川〜名寄間が天塩線と改称される。 下川医院が開業する。
1911(明治44)年、4月上名寄〜羽幌間の鉄道建設運動がおこる。11月天塩線の名寄〜恩根内間が延伸開業し、智恵文駅、美深駅、紋穂内駅、恩根内駅を新設する。一の橋からの造材が本格化し、夏季に名寄へ流送する。
1912(大正元)年、9月天塩線が宗谷線に改称となる。上パンケ八号以南の開拓が始まる。
1913(大正2)年、上パンケ神社建立する。
1915(大正4)年、11月一級町村制が施行され、上名寄村が名寄町となり属する。ペンケ地区に小作人が入地する。
1916(大正5)年、6月名寄電力発電株式会社設立する。谷井農場でパンケ御料地を借受ける。
1917(大正6)年、サンルにて寺島庄次郎が金の転石発見する。
1918(大正7)年、下川尋常小学校に高等科を設置する。合資会社下川木工場を設立する。名寄線の鉄道工事着工する。
1919(大正8)年、3月下川木工場を株式会社とし、ハネ材を利用して火力発電を行う。余剰電気を市街地にも供給する。9月名羽線(名雨線)の敷設運動始まる。10月名寄線として名寄〜下川間の鉄道が開通し、上名寄、下川の各駅を新設する。宗谷線が宗谷本線に改称となる。上名寄と下川の駅周辺に市街が出来る。
1920(大正9)年、6月下名寄村から智恵文が分村し二級町村制施行する。10月名寄線、下川〜上興部間の鉄道が開通し、一ノ橋・上興部の各駅を新設する。名寄女子職業学校(現・名寄市立大学短期大学部)が創設される。
1921(大正10)年、3月中湧別〜興部間が名寄東線として開業する。名寄〜上興部間を名寄西線に改称する。下川で米の試作が行われる。10月上興部〜興部間が延伸開業し全通し、線路全通に伴い線路名を名寄線に改称する。一の橋も駅周辺に市街が形成される。
1922(大正11)年、下川分村運動が広まる。
1923(大正12)年、11月名寄線を名寄本線と改称。
1924(大正13)年、1月名寄町から分村、二級町村制が施行され上川郡下川村となる。
1926(大正15)年、11月上名寄にサケ・マス孵化場設置する。12月珊瑠鉱山が三井鉱山株式会社による操業を開始する。
1928(昭和3)年、5月北海道バター工場(雪印乳業株式会社)開設する。一の橋に村上経木工場開設する。サンルに林木工場開設する。上名寄に電灯点く。
1930(昭和5)年、3月4月天塩線が宗谷本線に編入され、旭川〜幌延〜稚内港間が宗谷本線となる。それと同時に、音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離、北見線(後の天北線)に改称する。8月下川診療所開設する。上名寄に貯水池出来る。
1932(昭和7)年、10月湧別線の遠軽〜下湧別間を名寄本線に編入し、名寄本線(名寄〜遠軽〜中湧別〜下湧別)とする。パンケ・21線・22線・新興地区の開拓始まる。
1933(昭和8)年、ペンケ落合沢にて浅沼関市氏が鉱石を発見し、今堀喜三郎が採鉱に着手する。三井珊瑠鉱業所に精錬所を建設する。桑の沢の開拓が始まる。御車沢に開拓者が入植する。一の橋に電灯が灯る。
1934(昭和9)年、名羽線(名雨線)の着工にかかる。山本貞二がサンル12線に木工場を建設する。
1936(昭和11)年、サンル軌道敷設する。
1937(昭和12)年、11月名寄〜初茶志内間を名雨線として新規開業する。
1939(昭和14)年、森林軌道パンケ線開通する。
1941(昭和16)年、三菱鉱業株式会社(下川鉱山)による操業を開始する。
1942(昭和17)年、パンケ森林軌道を新設する。下川集乳所設置する。
1944(昭和19)年、三井珊瑠鉱業所金山廃鉱になる。
1945(昭和20)年、新下川鉱山に選鉱場完成する。開拓移民緊急入植。東京・横浜方面から開拓者が入植し、数年間続いた。
1946(昭和21)年、11月新下川鉱山選鉱場が全焼する。
1947(昭和22)年、パンケ地区が電化となる。
1948(昭和23)年、パンケ村の有地解放により11戸が入植する。
1949(昭和24)年、3月町制施行し下川町となる。
1950(昭和25)年、下川〜風連間の開拓道路開削する。サンルに自家発電施設設置。新下川鉱山索道輸送に切り替える。ペンケ軌道を撤去する。
1951(昭和26)年、6月下川〜雄武間の開発道路を開削する。12月下川町役場新築落成する。磯部鉱業所サンル金山の事業開始。
1952(昭和27)年、8月陸上保安隊名寄駐屯部隊キャンプ地工事着工する(現・自衛隊名寄駐屯地)。
1954(昭和29)年、8月智恵文村と合併、新名寄町が発足する。一の橋までバスが運行される。上名寄中学校校舎竣工する。翌年独立する。
1956(昭和31)年、4月市制施行し名寄市となる。5月一の橋市街で大火が起こる。サンル森林軌道を廃止し、トラックに切り替える。
1957(昭和32)年、5月下川市街地にて大火。王子製紙山林から火災が起き、下川風連境まで延焼する。12月桑の沢、21線が電化となる。
1959(昭和34)年、8月毘沙門天像を町有形文化財に指定する。パンケ森林軌道を撤去する。
1962(昭和37)年、4月奥サンル、幸成地区が開拓パイロット事業に指定される。
1963(昭和38)年、1月町立下川病院新館新築落成する。9月二の橋が電化となる。12月下川病院旧病棟の改築完成する。
1964(昭和39)年、6月下川〜朝日間の道路着工する。10月下川小学校ハルニレを有形文化財に、上名寄郷土芸能をを無形文化財に指定する。
1968(昭和43)年、5月名寄川頭首工通水式挙行。6月奥サンルにて大火。
1970(昭和45)年、1月下川シャンツェ完成する。
1971(昭和46)年、開成・渓和・二の橋・珊瑠・下川の小学校が統合となる。
1972(昭和47)年、3月渓和・珊瑠・二の橋・開成小学校の閉校式を挙行。珊瑠中学校を下川中学校に統合する。8月第一回矢文湖「鮭まつり」第一回商工祭開催する。11月道道下川〜朝日線開通する。統合した下川小学校校舎落成する。
1974(昭和49)年、9月下川町独立五十周年記念式典挙行。役場庁舎新築落成。11月一の橋簡易水道通水。12月町民保養センター「五味温泉」オープン。
1976(昭和51)年、3月町営サンル牧場計画が策定される。三菱金属下川鉱業所が分離「下川鉱業株式会社」となる。
1977(昭和52)年、12月50m級のシャンツェ完成する。
1979(昭和54)年、9月上名寄地区用水施設工事着工する。10月モサンル遺跡発見する。
1981(昭和56)年、6月サンル牧場開設される。12月林業従事者管理休養施設(五味温泉の前身)オープンする。
1982(昭和57)年、4月ふるさと開発振興公社(五味温泉)の発足。12月「下川鳴る石」を文化財に指定。
1983(昭和58)年、2月下川鉱山が休山する。
1984(昭和59)年、4月字名、地番の改正が行われる。
1985(昭和60)年、5月下川木工場が全焼する。6月桜ヶ丘遺跡の発掘始まる。
1986(昭和61)年、3月国有林の「象の鼻」の払下げを受ける。道開発局のサンルダム建設計画が具体化する。4月珊瑠鉱山が休山する。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化に伴い北海道旅客鉄道が承継する。7月町営スキー場ロッジ建設工事着工し12月に完成する。サンルダムの工事が決定する。
1988(昭和63)年、2月「しもかわ冬まつり」に代わって「アイスキャンドルフェスティバル」開催する。5月「桜まつり」に代わって「万里の長城祭」を開催。
1989(平成元)年、4月名寄本線が廃止される。5月バス転換となる。
1991(平成3)年、7月「ふるさと交流館」オープンする。
1993(平成5)年、サンルダム建設事業開始する。8月林業等休養施設増設工事着工する。
1995(平成7)年、5月桜ヶ丘公園、万里の長城メモリアルゲートのオープン式挙行。
1998(平成10)年、10月「サンル神社」を下川神社に合祀する。12月五味温泉交流促進施設を整備してオープンする。
2000(平成12)年、万里の長城全長2000mが完成する。10月開拓100年記念式典が挙行。
2017(平成29)年、11月サンルダム本体コンクリート打設完了する。
2018(平成30)年、6月試験湛水開始する。
2019(平成31)年、3月竣工式挙行。4月ダム管理開始する。
(下川町史第1巻〜第4巻参考)

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