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中頓別町郷土資料館

住所 枝幸郡中頓別町中頓別37
TEL 01634-6-1170
開館時間 10時〜17時(入館は16時30分まで)
休館日 月曜日、祝祭日、年末年始
料金 一般120円 小中学生60円

つながルーラル中頓別

中頓別町

町名の由来は、アイヌ語の「トー・ウン・ペッ(湖から出る川)」からであり、頓別川の中流に位置するため「中」が付いた。
中頓別町の中心部にある郷土資料館、明治〜昭和初期の農林商工業関係の資料と生活用具資料、中頓別町の開拓の始祖でもある楢原民之助の入植記録・中頓別鍾乳洞をイメージした展示コーナーなどがある。


北海道で最初に発見された日本最北の鍾乳洞中頓別鍾乳洞の関連資料も展示されている。
1933(昭和8)年、発見され、1938(昭和13)年、文部大臣より天然記念物に指定され、その後、1957(昭和32)年、北海道天然記念物になった。
この鍾乳洞は、新生代第三紀(約2300万年〜160万年前)の二枚貝やフジツボの殻化石で出来た貝殻石灰岩の中に形成された、新しい地質年代の珍しい鍾乳洞なんだそうだ。
一帯は、軍艦岩やドリーネ(石灰岩地域に見られる擂鉢(すりばち)状窪地。雨水・地下水に溶食されてできる)などのカルスト地形が広がっている。


ウソタンナイ支流で発見された、重さ768グラムもある金塊のレプリカも展示されており、これは日本一の大きさでもある。
1898(明治31)年、中頓別町では砂金が発見され、ゴールドラッシュが沸き、東洋のクロコダイルといわれた。
今でも砂金は見つかり、砂金掘り体験もでき、浜頓別町宇曽丹にあるウソタンナイ砂金採掘公園と中頓別字兵安にあるペーチャン川砂金堀体験場がある。



天北線とは、日本国有鉄道が運輸営業していた鉄道路線で、中川郡音威子府村の音威子府駅で宗谷本線から分岐し、枝幸郡浜頓別町等を経て稚内市の南稚内駅で再び宗谷本線に接続した。
線名は、敷設されていた地域の旧国名、「天塩国」の天と「北見国」の北からとられている。

1914(大正3)年、11月宗谷線の音威子府 - 小頓別間 (15.6km) を延伸開業から始まる。
1916(大正5)年、10月1日小頓別 - 中頓別間 (26.8km) を延伸開業。敏音知駅・松音知駅・中頓別駅を新設。
1918(大正7)年、8月25日中頓別 - 浜頓別間 (19.0km) を延伸開業。下頓別駅・浜頓別駅を新設。
1919(大正8)年、10月20日宗谷線を宗谷本線に改称。11月1日浜頓別 - 浅茅野間 (15.2km) を延伸開業。山軽駅・浅茅野駅を新設。
1920(大正9)年、11月1日浅茅野 - 鬼志別間 (17.1km) を延伸開業。猿払駅・芦野駅・鬼志別駅を新設。
1921(大正10)年、10月5日宗谷本線を宗谷線に改称。
1922(大正11)年、11月1日鬼志別 - 稚内(現在の南稚内)間 (56.2km) を延伸開業。小石駅・曲淵駅・沼川駅・樺岡駅・幕別駅・声問駅・稚内駅を新設。稚内機関庫鬼志別分庫設置。11月4日宗谷線を宗谷本線に改称。
1926(大正15)年、9月25日天塩線(音威子府 - 幌延 - 稚内間)全通。
1928(昭和3)年、12月26日稚内 - 稚内港(現在の稚内)間を延伸開業。
1930(昭和5)年、4月1日 - 音威子府駅 - 浜頓別 - 稚内駅間(149.9km)を宗谷本線から削除し線路名を北見線に改称。天塩線を宗谷本線に編入する。
1939(昭和14)年、2月1日稚内駅を南稚内駅に改称(同時に稚内港駅を稚内駅に改称)。
1961(昭和36)年4月1日北見線を天北線に改称。
1963(昭和38)年、10月1日幕別駅を恵北駅に改称。
1984(昭和59)年、2月1日全線の貨物営業を廃止。
1987(昭和62)年、4月1日国鉄分割民営化によりJR北海道に継承。
1989(平成元)年、5月1日全線廃止。宗谷バスに転換。


1645年〜1648(正保)年間、「ツウヘチエソ」と正保御国絵図に記される。
1670(寛文10)年、「つんへつ村」と頓別の地名が津軽一統志に記録される。
1700(元禄13)年、松前藩が幕府に呈上した元禄御国絵図に「つうへち」で図示される。
1807(文化4)年、トンベツにアイヌの家12軒、男女67 人(アイヌの長シリメキシュヱ)と戸口について西蝦夷地日記に記録あり。
1846(弘化4)年、松浦武四郎、トンベツ川を舟で渡りシヨナイ(斜内)に泊まると再航蝦夷日記に記載あり。
1856(安政3)年、松浦武四郎、トンベツ、ショナイについて具体的に記録、武四郎廻浦日記に絵図あり。
1869(明治2)年、北見国枝幸郡が正式に置かれエサシが枝幸となる。
1869(明治2)年、10月21日朝、プレーキストン氏枝幸を出発、斜内に2泊(熱のため休息)23日朝、頓別を通過、夕方猿拂着宿泊とある(プラキストン著「蝦夷の中の日本」)。
1871(明治4)年、判官松本十郎、北見国各郡を巡視トンベツ、アイヌの家2戸あり川守をしている(北見州経験誌)と書く。
1872(明治5)年、枝幸郡戸口36戸、人口153人(男85人、女68人)とある。
1874(明治7)年、アメリカの地質学者ライマン氏が、9月22日枝幸出発シヨセフの沢より馬で斜内山道を越え斜内に一泊。
1875(明治8)年、判官松本十郎北見国巡回、これが最後となる。
1878(明治11)年、枝幸郡に枝幸、頓別、歌登、礼文の 4 ヶ村が設けられる。
1891(明治24)年、枝幸村に4ヶ村戸長役場を設置。
1893(明治26)年、頓別駅逓所創設、取扱人土佐久三郎となる。
1898(明治31)年、頓別川の支流ペイチャン川に豊富なる砂金の産出あり、採取人がウソタンナイ川と合せ約1万6千人を数えたという。
1904(明治37)年、5月楢原民之助氏が頓別原野36線(現・中頓別市街)に定住し、農耕に従事する。これが中頓別の農業の始まり。
1909(明治42)年、10月道徳安二氏が枝幸郡第10部(中頓別町区域)の部長となり、この日を中頓別町開拓の日と定めた。12月頓別原野36線(現・中頓別市街地)に頓別第二特別教授場を創立。(寺子屋の始まりとなる)
1914(大正3)年、11月 鉄道宗谷線(天北線)が小頓別まで開通。
1916(大正5)年、10月鉄道宗谷線(天北線)が中頓別まで開通。
1917(大正6)年、2月中頓別郵便局設置。4月中頓別小学校、小頓別小学校が開校。
1921(大正10)年、4月頓別村より分村。二級町村制を施行。11月中頓別警察分署開庁する。
1938(昭和13)年、12月中頓別鍾乳洞、天然記念物の指定を受ける。
1949(昭和24)年、11月町制施行、中頓別町となる。
1956(昭和31)年、1月森永乳業の前身、町営製酪事業が操業開始。これにより農業の中心が畑作から酪農になる。
1980(昭和55)年、12月寿スキー場オープン。
1982(昭和57)年、4月主要道々浜頓別音威子府線が国道275号線に昇格。
1984(昭和59)年、1月第1回冬まつり開催。
1985(昭和60)年、8月運輸省、天北線廃止を正式に承認。12月郷土資料館完成。
1986(昭和61)年、7月敏音知冷泉試験導水に成功
1988(昭和63)年、3月森永乳業株中頓別工場閉鎖。6月ペーチャン川砂金掘体験場オープン
1989(平成元)年、4月天北線廃止。5月代替バス運行開始、ピンネシリ温泉オープン。
1990(平成2)年、天然記念物、中頓別鍾乳洞内整備。
1992(平成4)年、4月ピンネシリ温泉宿泊施設オープン。
1993(平成5)年、7月ピンネシリオートキャンプ場がオープン。
1996(平成8)年、10月敏音知道の駅オープン。
1999(平成11)年、8月第四回全日本砂金掘大会が中頓別町で開催。

楢原民之助とは、1865(慶応元)年、広島県豊田郡大崎島(現・広島県豊田郡大崎上島付近)に生まれる。
1899(明治32)年、枝幸よりペーチャン河井砂金鉱区を支配する。
1900(明治33)年、頓別原野の殖民区画を聞き、1902(明治35)年、原野に入り調査をする。
1903(明治36)年、3戸分の貸付を許され1904(明治37)年、移住する(現・中頓別市街地)。
この頃の頓別は海岸沿いに50戸ほどの民家があった程度で、移住した原野は誰も居なかったという。

国道275号とは、札幌市を起点とし、枝幸郡浜頓別町を終点とする一般国道で、総距離は、314.2km

正保御国絵図とは、1644(正保元)年、江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの地図が作成・提出された一国単位の絵図のなかの一つ。
松前藩は、1635(寛永12)年、藩士をサハリン島に上陸させ現地を調査しているが、このころの知識をもとに作成されたものと考えられている。
地図の東部には千島が描かれ、クナシリ・エトロフと見られる名前も書かれている。
しかし、北海道東部に小島が固まって描かれていて、島の大きさや位置関係はほとんどでたらめ。
この地図は交易相手のアイヌの伝聞からまとめたものである事は明らかで、伝聞を語ったに過ぎないものと推定されている。
この正保御国絵図には、東北地方北部の上に、赤茶色で島のようなものがあり、松前と書かれており北海道を表している。
正保御国絵図は、東北地方や松前半島近辺は、それなりに正確に描かれているが、蝦夷地や千島と思える島々の表示は、ほとんど現実離れしているほど、小さい。

津軽一統志(つがるいっとうし)とは、弘前藩(津軽藩)が編纂した官撰史書で、1731(享保16)年刊行、全10巻。
1727(享保12)年、弘前藩5代藩主津軽信壽が重臣喜多村政方に命じて編纂が進められるが、2年後に政方が急逝、その後桜庭正盈・相坂則武・伊東祐則の3名が引き継いでいる。
藩内の旧家・寺社の古文書を収集し、津軽為信の津軽統一に従った家、為信と敵対して後に津軽氏に従った家に対して史料。
大浦光信が南部氏に種里城を与えられてから、先代藩主津軽信政までの250年間余りの歴史を編年体にて記している。

元禄御国絵図とは、江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの地図が作成・提出された一国単位の絵図のなかの一つ。
元禄国絵図は、1696(元禄9)年、その作成が命じられ、1702(元禄15年)年、までにほぼ全国の分が完成したとされている。
国立公文書館には、元禄図の原本8鋪、模写本8鋪が保存され、1983(昭和58)年、国の重要文化財に指定された。

西蝦夷地日記とは、近藤重蔵にしたがって宗谷まで来た幕吏、田草川伝次郎が書いたもの。
1807(文化4)年、前年9月〜同年5月にかけてロシア船がカラフト・エトロフ島を襲撃する事件が発生し、その事後処理のため若年寄堀田正敦を首班とする巡見隊が派遣されることになった。
この時重蔵も遠山景晋配下の一員として一行の中に加えられ、箱館より田草川伝次郎・山田忠兵衛らとともに西蝦夷地を回ってソウヤに至り、また帰途はテシオ川・イシカリ川を踏査、同年12月8日帰府したという。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

トーマス・ブレーキストンとは、1832(天保3)年12月27日 - 1891(明治24)年10月15日、イギリス出身の軍人で、貿易商・探検家である。
日本に滞在し、津軽海峡における動物学的分布境界線の存在を指摘、のちにブラキストン線と命名された。
1861(文久元)年、函館で揚子江探検の成果をまとめた後、一旦帰国する。
その後、シベリアで木材貿易をすることを思い立つがロシアの許可が得られず断念。
北海道へと目的地を変更し、1863(文久3)年、再び函館を訪れ、日本初となる蒸気機関を用いた製材所を設立したが、輸送手段が未開発であったため頓挫する。
箱館戦争を経て1867(慶応3)年、友人とともにブラキストン・マル商会を設立、貿易商となる。
この間、鳥類の調査研究を行ない、北海道を中心に千島にも渡っている。
ブレーキストンが北海道で採集した鳥類標本は、開拓使に寄贈され、現在は北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園が所蔵している。

戸田惣十郎(松本十郎)とは、1840(天保10)年11月27日(1月1日)−1916(大正5)年11月27日、庄内藩(現・山形県鶴岡市)に生まれ、後に松本十郎と改名している。
明治時代初期に活躍した庄内藩出身の官僚で、武士。
戸田惣十郎が、蝦夷地勤務を命じられた父について1863(文久3)年、苫前で在勤している。
1864(元治元)年、庄内藩の陣屋があった浜益に移り、地元のアイヌの生活などを見る機会に恵まれた。
1865(慶応元)年、一度庄内に帰国している。
1868(慶応4)年、戊辰戦争で新政府軍と戦うが敗北し、藩主酒井忠篤は幽閉される。総十郎は藩主と庄内藩に対する恩赦を嘆願し京都に赴く。このとき朝敵藩出身である事を隠すために名前も「松本十郎」と改名した。
官軍の黒田清隆は、彼の才能を知り、開拓使に推薦する。
1869(明治2)年、開拓判官に抜擢され、同年10月に東京から移民団130人を連れて根室に入った。
アイヌも公平に扱い、彼自身もアイヌの住民から貰った「アツシ」と呼ばれる衣装を身に着けていたことから、「アツシ判官」と称されて敬意を払われたという。 1871(明治4)年、北見州経験誌・巡回誌抄を著している。
1873(明治6)年、松本は黒田清隆に求められて開拓使本庁の大判官に任命され、根室から札幌に向かう。
ところが1875(明治8)年、樺太・千島交換条約が締結されて樺太のロシア帝国領編入が確定し、樺太のアイヌを北海道内陸部に強制移住させて農業開拓に利用しようと計画するが、本来の生業である漁業に従事させる事を主張して黒田と激しく対立する。
1876(明治9)年、黒田は松本を無視して強制移住させ、慣れない生活と疫病により多くの樺太アイヌが死亡した。
1876(明治9)年、7月辞表を提出して故郷鶴岡に帰郷し、以後松本は故郷にて一介の農民として生涯を送った。
晩年に自分の生涯を振り返って執筆した回顧録『空語集』140巻を著している。
余談ではあるが、松本十郎の孫、松本友氏が1940(昭和15)年〜1965(昭和40)年まで、北大第八農場の派出所長として、富良野に居んでいた。 富良野市博物館にそれにまつわる書物が展示されている。


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