西川青濤歌碑住所 富良野市北の峰18-6 富良野プリンスホテル前庭ふらの観光協会 富良野プリンスホテル 富良野市生涯学習センター 富良野の由来は諸説があり、アイヌ語の「フラヌ」(赤色の溶岩や焼石が沢山あるところ)「フーラヌイ」(硫黄臭き火炎の土地)「フラヌイ」(臭き火焔)から転訛したものといわれ、いずれも市内を流れている富良野川の上流に硫黄山(十勝岳)があり、噴気と臭気に由来している。 富良野市街地から国道38号線を芦別方面に約1.4km進み、道道800号北の峯線から富良野プリンスホテル方面に向かい約650mほど。 ホテル前庭に碑が建っている。 ひむかしの 空の高処に 火を抱く 十勝は父と わがあふぐ山 1968(昭和43)年9月建立 富良野プリンスホテルとは、西武グループのホテル・レジャー事業会社が運営するホテルで、富良野を代表するリゾートホテルである。 すぐそばには、プリンスホテル運営のスキー場である富良野スキー場があり、北海道屈指の規模を持ち、かつてアルペンスキー・ワールドカップを長い間開催していたスキー場がある。 スキー場からは、富良野盆地と十勝岳連峰が一望でき、雪質の良さも定評がある。 1931(昭和6)年、北の峯スキー場開設。 1951(昭和26)札幌で開催されるはずだったものが実施不能になり、富良野町で開催される事になる。(大会に参加した関係者の評価は高く、連続して大会が開催されることになった。) 1952(昭和27)年、第30回全日本スキー選手権が開催される。(この時リフトなどなく、数時間かけて山に登り、立ち木の中を滑り降りるという山スキーのゲレンデだったそうだ。) 1962(昭和37)年、12月北の峰スキー場に第一リフト完成。 1972(昭和47)年、北の峯観光開発、北の峯温泉ホテルの譲渡、国土開発による富良野プリンスホテルの建設はじまる。 1974(昭和49)年、12月富良野プリンスホテル本館開業。 1975(昭和50)年、3月第三十回冬季国体と全日本スキー選手権を行う。 1976(昭和51)年、10月スキー場名が「北の峰スキー場」から「富良野スキー場」に変更された。 1977(昭和52)年、2月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。 1979(昭和54)年、3月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。 1981(昭和56)年、3月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。 1983(昭和58)年、3月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。 1985(昭和60)年、2月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。 1986(昭和61)年、3月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。 1987(昭和62)年、3月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。 1988(昭和63)年、12月新富良野プリンスホテルの開業。 1989(平成元)年、3月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。 1991(平成3)年、2月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。 西川青濤(にしかわせいとう)とは、1905(明治38年3月22日 - 1994(平成6)年、歌人、市特別功労・教育文化功労者。 徳島県那賀郡上那賀町生まれ、本名仁之進(にのしん)。1909(明治42)年、両親に判われ北海道に渡り、美瑛町に入植。その後富良野に移住する。 1922(大正11)年、潮音入社。 1925(大正14)年、国学院大学神職教習科卒業し、富良野神社で奉仕。以後、富良野神社宮司補命、富良野宗教連盟理事長、神社本庁評議員会常任委員長、神道政治連盟副会長などを歴任。 1938(昭和13)年、「新万葉集」に五首登戴。 1946(昭和21)年、富良野神社宮司となる。短歌結社「樹氷社」を創立主宰に推され「樹氷」創刊。 1966(昭和41)年、「潮音」幹部同人となり歌集「活火山」上梓。 1979(昭和54)年、講談社版「昭和万葉集」に三首登戴。 1981(昭和56)年、第二歌集「雪の輪唱」刊行。北海道文学全集に十三首登戴。 国道38号線とは、滝川市から釧路市へ至る一般国道で、総距離は298.4km。 道道800号北の峯線とは、富良野市を結ぶ一般道道で、総距離は0.9km。 大きな地図で見る |