北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

富良野市 平沢開拓碑(地神)

住所 富良野市平沢
ふらの観光協会公式サイト

富良野の由来は諸説があり、アイヌ語の「フラヌ」(赤色の溶岩や焼石が沢山あるところ)「フーラヌイ」(硫黄臭き火炎の土地)「フラヌイ」(臭き火焔)から転訛したものといわれ、いずれも市内を流れている富良野川の上流に硫黄山(十勝岳)があり、噴気と臭気に由来している。
平沢の由来は、東大演習林がここを平沢と命名したことに由来する。アイヌ語由来ではない。
道道253号東山富良野停車場線の老節布市街地交差点から麓郷方向へ約5.2kmほど。

開拓碑ではないが地神が祀られている。
1947(昭和22)年から翌年にかけて入植。入植してまもなく神職である高木吉次郎氏が居たこともあり地神を創始した。場所の移転が何度かあったが、水道貯水池がある当時の小松貞雄氏所有の土地を寄贈され移した。その後集落センター向いに移転。御神体は大国主之命の神霊である。


平沢地区は、老節布川の最上流部にあり、西北には標高519mの旭岳、東南には標高546mの中央山、北は麓郷との分水嶺により界されている。
旧新富・旧更新部落は起伏が多いが、旧東光・稔地区は比較的平坦が多い。新光部落の峠から麓郷方向を望むと平坦地が多く、演習林が平沢と云った。現在は防雪柵が設置され景観は失われている。
この地区は、戦後の開拓となる。1944(昭和19)年頃には当時の東山村(現・富良野市東山)で、戦争に伴う食糧増産と、次男・三男対策とも言うべき林内開拓適地解放の請願を東大演習林に求めていた。演習林当局もこの計画に沿って開拓の計画を立てていたが、戦争が終結する。これにより戦後緊急開拓計画へと変更になり、軍関係復員者、戦災者、外地引揚者、地元入植者を受け入れ、面積450haの開拓が実現した。
1946(昭和21)年に上川支庁より土地測量が入り、入植適格者に土地の配分があり、旧新富(老節布とどまつ地区隣)で開拓の第一歩を記した。
土地の配分は、入植希望者を役場会議室に集め、抽選により土地を割り当てたが、適地・不適地の差が甚だしいこともありこの割り当てが経営に大きく影響を与えることとなった。
入植当時の開墾は、機械など無く、全てが人力だった。やっとの思いで切り倒した木は薪にし、開墾した面積に当る開墾補助金が貰えたことからそれが収入源となった。入植当時は大きな大木が立ち、昼尚暗い自然林が広がっていた。道路は演習林が付けた幅1.5mほどの林道しかなかった。林道も無いところは造材道を歩いていた。立木と熊笹が生い茂る為隣の小屋は見えず、声だけこだまする状況だった。
1948(昭和23)年からは、火薬による抜根事業が始まった。中島良一主事、林政雄、相馬五郎、半田健一氏が資格者となり、主事は熊の沢西達布地区へ、他は平沢地区の抜根事業に従事した。

当時の家は、拝み小屋(屋根と壁の区別のない家)を建てるか、掘立小屋(柱を直接土中に埋めて簡単につくった粗末な家)がほとんどだった。屋内の床は板張りではなく、細い丸太や割木を並べその上にムシロをひいた簡単なものだったが、入植して1〜2年立つと建設ラッシュに沸いた。
開墾は、木の伐採、集積、火防線を切り、演習林から火入れ許可の認可を取り、火防係員の立会いの下行われた。しかし何度か山火事が起きたのは言うまでもない。その後鍬を入れるが、笹とか木の根が深くはびこり難渋した。農具も島田鍬(硬い土を掘り起こし、草の根切りをするための開墾用の唐鍬)、鎌、熊手くらいしかなく苦労した。1949(昭和24)年に農耕馬が入り馬耕作業へと変わっていった。
食べ物は、配給米があったが1ヶ月3〜4kg程度だった。そのためトウキビの粉や澱粉、小麦粉などが配給された。開墾が進むと自家用の稲キビ、裸麦、馬鈴薯、カボチャ等が主食となった。1950(昭和25)年頃には農協の老節布支所に精米所が出来て便利になった。この頃は薪材などを富良野市街の人と物々交換したり米と交換したりと少しずつ生活は良くなっていったようである。
入植当時は電気は無く、ランプを使い油は東山まで徒歩で買いに行った。ストーブは薪ストーブを使い、春になると薪材の調達が春の仕事だった。全戸電気が通ったのは1953(昭和28)年のことである。

老節布とどまつ地区隣の新富地区の入植は、1945(昭和20)年静岡県庁は県外移民を募る。北海道緊急開拓の移民募集を行い静岡市7戸・伊豆1戸・掛川1戸が上川郡和寒村に10月に出発するが、和寒村では受入れ態勢がまだ出来ておらず、奥地でも肥沃な土地ならと東山村を選んだ。
10月23日に、下金山駅に到着し、真言寺に落ち着き3地区に分かれて住んだ。最初は2町歩だった土地はまもなく道庁の指示により5町歩となったが、静岡団体の大部分は離農していった。

道道253号東山富良野停車場線の両側に連なる平沢東部である東光地区は、現在は地神や平沢集落センター(地域会館)などがある地区である。1947(昭和22)年から翌年にかけて17戸が入植した。入植してまもなく神職である高木吉次郎氏が居たこともあり地神を創祀した。場所の移転が何度かあったが、水道貯水池がある当時の小松貞雄氏所有の土地を寄贈され移した。その後集落センター向いに移転。御神体は大国主之命の神霊である。
1970(昭和45)年5月新富・東光地区は合併し、新光部落となった。
写真は峠から少し下った場所で富良野岳方向を望む。


みのり地区は、1947(昭和22)年に21戸が入植した。旧東山村地区の分家独立による人々が多く、後ろ盾もあったこともあり戦後開拓としては高い成績を上げた。平沢の基線道路の両側に農地があり、比較的平坦な場所が多い。地神は1948(昭和23)年に部落会館前に高木吉次郎を代表とし創祀された。御神体は大国主之命の神霊である。部落会館内に祀られていたが会館が1972(昭和47)年に火事になりその後は不明である。ちなみに会館は翌年再建されている。
写真は、稔地区の高台から富良野岳方向を望む。


更新地区は、みのり部落より一度は分かれたが、後にみのり部落に入ることとなる。平沢の西側に位置し、標高519mの旭岳の麓に近く、起伏の多い土地が多かった。1948(昭和23)年に13戸の割当に対し12戸が入植した。1965(昭和40)年1月にみのり地区と更新地区は合併した。
この更新地区に私の先祖も入植したのだが、雨が降れば傾斜にある畑の作物は流れ、なかなか農作業が大変だったのを覚えている。ちなみに作っていた作物は馬鈴薯、スイトコーン、大豆、ビート、人参が主なものだった。



1898(明治31)年、札幌農学校第八農場が下富良野に看守所を置き小作人の募集を開始する。
1899(明治32)年、東京帝国大学農科大学北海道演習林、道庁より土地の公布を受ける。5月富良野村を空知支庁管内から上川支庁管内に編入し、戸長役場を上富良野に置く。9月兜谷徳平が下富良野に官設駅逓を設置する。北海道官設鉄道十勝線(現・根室本線富良野線)として旭川〜美瑛間が開業、辺別駅・美瑛駅を新設。11月美瑛〜上富良野間が延伸開業、上富良野駅を新設。
1900(明治33)年、8月上富良野〜下富良野間が延伸開業、下富良野駅を新設。12月下富良野〜鹿越間が延伸開業、山部信号停車場・金山駅・鹿越駅を新設。東京帝国大学総長菊池大麗が演習林を視察。木道金太郎が駐在員として派遣され調査にあたる。
1902(明治35)年、下富良野神社創祀。
1903(明治36)年、現在の上富良野町から占冠村まで行政区域が及んでいた富良野村は、上富良野と下富良野の2村に分割、富良野村を上富良野村に改称。同年9月下富良野村戸長役場が市街地に設置された。
1906(明治39)年、占冠村を合わせ下富良野村外1ヶ村組合戸長役場設置。東大演習林に保護所を設置。苗圃設営。試験入植を実施する。
1910(明治43)年、官設西達布渡船場が設営。西達布川本流の開拓に着手、22戸が入植する。
1911(明治44)年、下富良野官設駅逓廃止。5月下金山で発生した山火事が延焼し、東大演習林3600町歩の原生林が焼失する。
1913(大正2)年、山部に東大演習林庁舎落成する。10月下金山駅を新設。11月滝川〜下富良野間が開業する。幌倉・上赤平・平岸・下芦別・野花南・奔茂尻・島ノ下の各駅を新設し、滝川〜釧路間を釧路本線と改称し、下富良野〜旭川間を分離し富良野線とする。
1914(大正3)年、入植者の失火により山火事発生する。西達布(現・東山)の市街地区画測量実施。9月西達布神社創祀。
1915(大正4)年、山部村が分村し、二級町村制を施行。山部戸長役場を設置する。東大演習林西達布保護所設置される。
1917(大正6)年、曹洞宗永平寺派西達布説教所(現・富良野市東山658 大仙寺)創立。
1919(大正8)年、下富良野村に町制を施行し、富良野町となる。
1920(大正9)年、東大演習林内、下金山〜すみれ地区まで森林軌道の建設着手。東大演習林西達布作業所設置される。
1921(大正10)年、4月下富良野町に一級町村制施行。
1924(大正13)年、8月西達布開墾記念碑(現・東山神社境内)を建立。
1926(大正15)年、5月十勝岳爆発する。上富良野を中心に死者・行方不明者144名、負傷者200名、流失・破壊家屋372棟という大災害となった。
1931(昭和6)年、東大演習林東山において自家発電行う。
1932(昭和7)年、吉本庄平が下金山〜熊の沢(現・西達布)間のバスを運行する。
1938(昭和13)年、山部に石綿工場3社創立、翌年より生産開始する。
1940(昭和15)年、4月山部村を割き「東山村」を置く。東山地区は「濶葉樹」名・西達布地区は「草」(灌木)名・老節布地区は「針葉樹」名を命名し、老節布ではとどまつ・いちい・くろまつ・あかまつ・からまつの5部落が形成された。
1942(昭和17)年、4月下富良野駅を富良野駅に改称する。
1945(昭和20)年、富良野市街地、3回に渡り米軍機の空襲を受ける。
1947(昭和22)年、東山中学校開校。旧東光・稔地区に入植者が入る。
1948(昭和23)年、旧更新地区に入植者が入る。4月旧新富地区に電灯が灯る。
1949(昭和24)年、11月平沢小学校が開校となる。
1950(昭和25)年、東大演習林老節布地区543町歩開放される。6月東大演習林平沢保護所が開設され、座間猛氏が任に当たる。五十嵐兼五郎氏の所で雑貨店が開店する。
1951(昭和26)年、東大演習林763町歩開放される。
1952(昭和27)年3月土地の売渡が行われ、自作農となる。
1953(昭和28)年、稔・更新地区に電灯が点く。
1954(昭和29)年、平沢地区に水道施設が完成する。
1955(昭和30)年、3月水道の通水開始する。
1956(昭和31)年、10月東山村、富良野町と合併する。
1964(昭和39)年、10月東山遺跡発掘調査行われる。12月東大演習林第二次農地解放で152戸自作農になる。
1965(昭和40)年、1月稔地区と更新が合併し稔部落となる。5月新富と東光が合併し新光部落となる。
1966(昭和41)年、4月山部村と富良野町合併し、富良野市となる。
1967(昭和42)年、金山ダム竣工式挙行。富良野市農業高校(現・富良野市博物館)開校する。
1972(昭和47)年、東郷ダム建設着手(2018(平成30)年現在、完成せず)するが漏水が改善できていない。
1980(昭和55)年、TVドラマ「北の国から」撮影開始。平沢小学校が廃校となる。
1981(昭和56)年、樹海西小学校の開設により老節布小学校は閉校。平沢集落センターを小学校跡地に建設する。
1983(昭和58)年、「樹海」(東大演習林)が、日本の自然百選に選定される。
東山開拓80周年記念誌参考

Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system