立原道造詩碑住所 旭川市末広8条1丁目 旭川実業高校 宿泊研修センター入口付近社団法人 旭川観光協会 末広高台通線(通称ジッコウ通り)を、実業高校へ向かい旭川新道の陸橋を渡ると左手に見える。 碑の由来については、道造本人が来旭したわけではなく、実業高校の生徒が建立したものではないかと思われる。(旭川文学資料館に問い合わせた) 実業高校内にも徳富蘆花文学碑がある。 草に寝て…… 六月の或る日曜日に 立原道造 それは 花にへりどられた 高原の 林のなかの草地であつた 小鳥らの たのしい唄をくりかへす 美しい声が まどろんだ耳のそばに きこえてゐた 私たちは 山のあちらに 青く 光つてゐる空を 淡く ながれてゆく雲を ながめてゐた 言葉すくなく ──しあはせは どこにある? 山のあちらの あの青い空に そして その下の ちひさな 見知らない村に 私たちの 心は あたたかだつた 山は 優しく 陽にてらされてゐた 希望と夢と 小鳥と花と 私たちの友だちだつた 立原道造(たちはらみちぞう)とは、1914(大正3)年7月30日 - 1939(昭和14)年3月29日)、詩人であり建築家でもある。 東京市日本橋区橘(現・東京都中央区東日本橋)に生まれる。父貞治郎、母トメ。 1919(大正8)年、父の死去により家督を相続するが後に弟達夫が継ぐ。 1927(昭和2)年、東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)入学。パステル画では抜群の才能を発揮する。北原白秋を訪問し、口語自由律短歌を「學友會誌」に発表する。自選の歌集である「葛飾集」「両國閑吟集」、詩集「水晶簾」をノートにまとめる。 1931(昭和6)年、第一高等学校理科甲類入学。短歌の倶楽部に入部する。前田夕暮主宰の「詩歌」に投稿するなど高校時代を通じて詩作を続け、物語「あひみてののちの」が『校友会雑誌』に掲載される。 1932(昭和7)年、自らの詩集である「こかげ」を創刊する。手づくり詩集「さふらん」の編纂も手がけた。 1933(昭和8)年、手づくり詩集「日曜日」「散歩詩集」を制作する。 1934(昭和9)年、東京帝国大学工学部建築学科入学。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。 1935(昭和10)年、課題設計「小住宅」により辰野賞を受賞。在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した。同人誌『未成年』を創刊する。 1936(昭和11)年、テオドール・シュトルム短篇集「林檎みのる頃」を訳出した。 1937(昭和12)年、東大卒業後、石本建築事務所に入社し、「豊田氏山荘」を設計。手づくり詩集「ゆふすげびとの歌」を制作する。自装の第1詩集「萱草に寄す」、第2詩集「暁と夕の詩」を立て続けに出版、発表し建築と詩作の双方で才能を見せた。 1938(昭和13)年、 「秋元邸」を設計、施工する。肺尖カタルのため休職し、第3詩集「優しき歌」、同人誌「午前」を構想するが未刊となる。 1939年(昭和14年)、第1回中原中也賞受賞(現在の同名の賞とは異なる)。同年3月29日午前2時20分、結核のため24歳で没した。 大きな地図で見る |