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常磐公園

住所 旭川市常磐公園

財団法人旭川市公園緑地協会

一般社団法人 旭川観光コンベンション協会

旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。
国道40号線の旭川常盤ロータリーそばにある。
旭川市の都市公園で、旭川市が管轄し財団法人旭川市公園緑地協会が管理している。
面積は約16ha、年間を通して花フェスタ・護国神社祭・旭川冬まつりなどの行事が公園内および近隣で開催され、旭川八景の一つでもある。
現在も多くの市民や観光客が訪れる憩の場になっている。
1910(明治43)年、開設された公園で市の中心部に位置している。
公園内の樹木はニレ・ドロ・トドマツ・ポプラなどの巨木が見られる。
1913(大正2)年、池の掘削を行う。
1913(大正7)年、茶店の設置、ボートの設置。同年7月27日、牛朱別川が氾濫し、公園一帯が被害を受けるが翌年から復旧工事を行う。
1933(昭和8)年、公園の改造計画を作成し造成する。
1935(昭和10)年、グラウンド完成。
1938(昭和13)年、上川神社頓宮竣功。
1950(昭和25)年、天文台完成。  同年7月〜8月北海道開発大博覧会開催。
1989(平成元)年、7月日本の都市公園100選に選定。
1997(平成9)年、旭川八景に選定。
公園の側には、北海道立旭川美術館・旭川市中央図書館・旭川公会堂・常磐プール・旭川文学資料館などの文化教養施設がある。
公園内や池の周りには東屋があり、たくさんの方が座って休憩してしている。
花壇にも様々な花が植えられており、春はチューリップ、夏はサルビアやマリーゴールドが綺麗である。
ハトが異様に慣れているのも可愛いもので、エサをねだりにそばまで来る。


岩村通俊像 北海道・旭川開拓の功労者の銅像


永山武四郎像 北海道・旭川開拓の功労者の銅像
永山武四郎とは、明治時代に北海道庁長官、第7師団長、貴族院議員等を歴任する。官位は陸軍中将従二位勲一等男爵。


風雪の群像(本郷新、本田明二製作のブロンズ像)
北海道100年記念事業として、3人の若い男性とアイヌの老人、若い女性の5人の群像。
1970(昭和45)年、8月作品は構想通りに製作され除幕された。
1972年10月23日に発生した爆弾テロ事件により作品が爆破された。
1977(昭和52)年、風雪の群像は復元され現在にいたる。


北海道立旭川美術館
旭川市にある美術館で、設置者は北海道、建物は北海道を代表する建築家田上義也による設計。
道北にゆかりのある作家の作品や、伝統木工芸や木の造形、木工クラフトなどが展示されている。

旭川文学資料館
旭川市常磐館(旧青少年科学館)内に「旭川文学資料館」がある。
旭川ゆかりの文学資料を収集・展示・保存する旭川文学資料館で、管理は旭川市、運営管理はNPO法人旭川文学資料友の会が行っている。

小熊秀雄詩碑
碑には、『現代文学』の追悼号に遺稿として発表された詩の一部が刻まれている。

魚鳥記念碑
碑文『人類の生存と発展に貢献し、自らを捧げられた魚鳥類の霊に、深き感謝をこめて、永久に冥福を祈る』と有る。
他の生命から命の源を与えられていることを忘れがちな現代人に最も必要な精神を表しているように思える。


今野大力詩碑
旭川新聞社給仕や郵便局員として働き、この頃から詩作をはじめる。

本田新美顕彰碑・副碑
旭川の開拓に尽力し、石狩川流域発展の基礎を築いた功労者である。

旭川開拓村記念碑
この碑の詳細は分からず。


旭川消防組記念碑
旭川市は、1890(明治23)年、9月20日旭川村として誕生した。
旭川消防の歴史は、私設消防組・公設消防組・警防団及び自治体消防の時代に大別される。
1888(明治21)年、3月消防組設置準則制定(道庁訓令第32号)
1892(明治25)年、5月火の見櫓建立する。
1894(明治27)年、12月旭川村忠別消防組と称する。
1934(昭和9)年、8月篤志者の寄付によって常磐公園に消防碑を建設する。
この碑は、1894(明治27)年、創設以来40周年を記念して組員の寄付金2000円で建立された。
碑石は仙台石で、台座を含んで7m、当時の北海道庁長官佐上信一の題字で「旭川消防組記念碑」と書かれ、撰文は笠原定蔵。


上川神社頓宮草分碑・遺芳千載 (いほうせんざい)
この2つは 1947(昭和22)年に建立。
1898(明治31)年、それより前に旭川へ入地した人達の集まりが「草分会」と呼ばれていたそうで、その方々が建てた碑とのこと。
遺芳千載には260人あまりの方々の草分会会員の名前があるそうだ。


西本一都句碑
ななかまど十三葉の露涼し

行幸啓記念碑
1968(昭和43)年9月、常磐公園を会場に自治体制度20周年記念北海道消防大会が開催され、昭和天皇・皇后両陛下の御臨席を仰ぐ。


常磐公園碑
常磐公園入り口に立っている碑。この碑は公園完成後、師団通り(国道沿い)におかれていた。
当時の師団長渡辺錠太郎の手により「常磐公園」の文字を書せられたが、本来は「常盤」となるところ「常磐」としたため、町名と公園名が異なってしまった。


旭川市 旧天文台
北海道開発大博覧会の目玉として1950(昭和25)設置された。 小高い丘の上にあり、4.5mのドームの中に、五藤光学製15cm屈折望遠鏡があり、道内最初の天文台で、太陽黒点の継続観測を行っていた。

風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件とは、1972年10月23日に発生した爆弾テロ事件。
東アジア反日武装戦線となるグループが起こした事件で、日本帝国主義の「アイヌモシリ侵略」の象徴とみなし爆破する。

永山武四郎(ながやまたけしろう)とは、1837(天保8)年4月24日(5月28日) - 1904(明治37)年5月27日、日本の陸軍軍人で、明治時代に北海道庁長官、第7師団長、貴族院議員等を歴任する。官位は陸軍中将従二位勲一等男爵。
鹿児島藩士、永山盛広の四男として生まれ、同じ藩士の永山喜八郎の養子となる。
戊辰戦争に従軍し、維新後の1871(明治4)年7月、陸軍大尉・2番大隊付に任命される。
1872(明治5)年、9月から北海道開拓使八等出仕となる。
1877(明治10)年、4月に屯田兵第1大隊長に就任後、西南戦争に従軍する。戦争から帰還し屯田兵大佐となる。
1888(明治21)年、6月から第2代北海道庁長官を兼ねる。
1889(明治22)年、8月屯田兵司令官に就任。
1895(明治28)年、2月臨時第7師団司令官となり、同年12月4日、男爵に叙される。
1896(明治29)年、5月第7師団師団長に正式に就任する。同年10月、陸軍中将に進級し1900(明治33)年、4月まで務めた。
北海道庁長官となった武四郎は、北海道でも特に内陸部の開発に着目していた。
岩村通俊と共に上川原野を視察し、国見を行ったことでも有名で屯田兵村を設置するが、この村は1890(明治23)年、永山村と名前を変える。

国道40号線とは、旭川市から稚内市へ至る一般国道で、総距離は243km。

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